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浜田山通信 №43 [雑木林の四季]

浜田山通信 7人の侍②

                                   ジャーナリスト  野村勝美
 
  私の亡妻一弥が始めたおもちゃ屋あらよ(現ドコモショップ)の隣りのサンエーデンキ(現雑貨店セルフウイッシュ)中川文男さんのことである。中川さんは大正3年小石川柳町に生まれた。祖母がここで荒物屋をやっていて、名前がつるだったので店の名を「つるや」と称した。荒物屋は、幕末から明治に掛けて、農家の二、三男が町に出てやる商いだったが、大正時代の扱い商品を中川さんは覚えていた。土鍋、焙烙(ほうろく)、七輪、猫あんか、陶器の湯たんぽ、油をしみこませた火出(ほた)1束3銭、脱脂綿、高枕、お盆、会津塗、バケツ、洗面器、米箱、箒、ちりとり、磨砂、お線香、半紙、巻紙、筆、インクetc.。洗い張り用の糊は洗面器いっぱいで10銭。今戸焼きも火消し壺からエナ入れまであったが、関東大震災後、問屋がなくなり、土鍋が店頭から消えたという。これらの商品はもはや注釈なしだはわからないだろう。荒物屋は日用雑貨を売り、田舎へ行くと加えてナワやムシロ、鎌、鍬など農具まで扱かった。金物屋、文具屋、電気屋、おもちゃ屋、などは荒物屋から枝分かれしたといってよい。
  つるおばあさんの息子、つまり中川文男さんの父は勤め人だったが、そのお嫁さんが店を手伝った。柳町は後楽園に近く、昔は大賑わいだったが、中川さんの母親は大正9年、30歳で亡くなる。中川さんは6歳。後妻はキクエさんという人がくる。
  つるやは昭和7年まで続いた。商店街を流れていた千川が暗渠になり、人の流れが変わったので店をたたみ、昭和10年頃、浜田山に移ってきた。いまの浜田山1丁目で、俳優の山本圭さんの父もその頃、同じところに家を建てている。圭さんは子供の時、近くの神田川で泳いだそうだ。
  当時中川さんは20歳、現役2年でそのまま召集をうけ、南京野戦部隊で広西省のベトナム国境まで行った。いったん帰国して富国生命に就職、そして結婚もしたがまた召集され、終戦1年前に除隊するまで前後7年間軍隊にいた。
  結婚相手は近くの地主安藤長太郎さんのいとこ。長太郎さんの父と中川さんの母が兄妹で、もう1人の妹は毎日新聞浜田山販売店へ嫁いだ。前に書いた文具店の吉田鍋蔵さん(この人も7人の侍の1人)
は販売店の末っ子だから中川夫人と従弟になる。戦前の結婚は大体近場の仲人が話しを持ってきて、若い人を一緒にさせたものだ。
  中川さんは戦後、これまた別のいとこと電気工事の会社を作り、経理をみていたが、ヒマをみて工事現場へも行き、これくらいなら俺もできると工事をやり、昭和28年に店を出した。
  継母のキクエさんには娘と息子がいて久我山、世田谷に住んでいたが、婚家先や養子にやった先に老親がいたので、おばあちゃんは中川家でひっそりと暮らしていた。昭和55年、82歳でなくなった。商店会では皆火葬場へ行った。つきあいは盛んだった。いまこんな年寄りがいたことを知る人はほとんどいない。(つづく)


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