西北への旅人 №18 [雑木林の四季]
勉強の幅の広さ
元早稲田大学総長 奥島孝康
このお二人はどちらも英文学に秀でた方でありますが、ただ、坪内先生は政治学科・理財学科の両方を卒業された方であります。文学部の英文学科を卒業された方ではありません。会津先生は英文学科を卒業された方でありますが、坪内先生は政治学や理財すなわち経済学を研究して大学を卒業され、後に英文学を専攻されるようになったわけであります。それに対して、会津先生は英文学科を卒業されたわけでありますが、後に東洋美術という方向に進まれました。これも、面白いお二人の経歴だと思っているわけであります。というのは、自分が大学時代にやったこととは別のことにその才能を開花させられたからであります。
たとえば、坪内先生は名古屋の近くのご出身でありますが、その近くにありました大惣(大野屋惣八) という日本一の貸本屋、当時蔵書が五〇万冊もあったといわれ、ロンドンにあった世界一の貸本屋に次ぐといわれるたいへんな貸本屋であります。先生はそこに座りこんで膨大な量の本を読まれたのです。それが、明治年間一杯で店を閉じるわけでありますが、そのとき坪内先生に蔵書を大学で買わないかと声がかかった。坪内先生は大学と相談しましたが買えなかったようです。いま考えてみるとたいへん残念なことであります。
私はかつて図書館長をやっていたことがありまして、そのおり、いろいろな勉強をさせてもらいました。たとえば、大学近くの古本屋が島崎藤村の『破戒』の原稿を大学に一〇万円で買ってもらいたいと申し出てきた。戦後の二〇年代の話でありますが、一〇万円だったら当時としても安いものでした。しかし、当時の館長はそれを買わなかった。なぜかというと、早稲田はそういう貴重品は集めていない。誰にも入手できるものでよいと言ったそうであります。私は悔やんでも悔やみきれない思いをいだいています。大惣の本もそうであります。坪内先生は買いたかったのですが、大学の方で買う余裕がなかった。その結果、その本の大半は東大やその他へ分散してしまいました。当時、江戸時代の本だけでも十数万冊残っていたそうでありますが、これが早稲田に入っていたならば、早稲田は江戸文学については世界一の図書館になれたものをとたいへん残念に思っているわけであります。
坪内先生は、若いころ、その大惣に弁当を持って終日座り込んで、江戸時代の小説類を読みに読みふけったそうであります。その上に大学では政治学や経済学を学んでおられたわけであります。そんなわけで大学の勉強には熱が入らず一年留年して、本来ならば高田早苗先生と一緒のはずが一年遅れて卒業することになったわけであります。そのため、本学の開校の年である一八八二(明治一五)年にはまだ早稲田の先生にはならず、翌年大学に赴任されたわけであります。そういうふうに大惣というところで勉強されていながら、坪内先生は学問をして日本の屋台骨を支えようと志されたのでしょう、当時の開成校、後の東大に進まれたわけであります。そういうわけで、坪内先生は早稲田に赴任後は憲法と各国の歴史も教えています。だから大学で勉強したことが早稲田で役立ってなかったかというとそうではない。東大で学んだ政治学とか憲法を早稲田で教えられている。教師としてはそこから出発されています。 それに対して、会津先生はまず英語教師として早稲田中学に赴任され、そして高等学院に、その後美術史の初代教授として文学部に迎えられています。
このようにお二人の生き方には、幅の広い勉強がその学殖を深めるという効果があったのではないかと考えます。いずれにせよお二人の間には生き方の上でも相互に共感するところが大きかったのではないかと思われるわけであります。だから、単なる師弟関係というよりも、もう本当に親子に近い関係の師弟関係ではなかったかと思います。
『西北への旅人』成文堂
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