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戦後立川・中野喜介の軌跡 №36 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

◆第三節 選挙違反

                            立川市教育振興会理事長  中野隆右

 話は少し元に戻るが、講和の前後、競輪場問題とそれに並行する選挙をめぐって「夜の市長」の異名を取った中野喜介氏の名が、再び全国の耳目を集める事件の渦中に登場したのは、昭和三十四年のことである。
 今度は主役ではない。だが、やはり良い話でもない。主役は戦前から高名な実業家で、参議院議員を務める鮎川義介氏。鮎川氏による選挙違反事件に巻き込まれたのである。
  鮎川義介氏は、東京帝大を出て技術者となり、のちに実業家として成功。戦前、日本産業社長として、日産自動車、日本鉱業、日立製作所などを擁する日産コンツェルンを立ち上げたことで知られる。
  また、満州重工業総裁として、満州事変以後の「満州経営」に重要な役割をはたした。満州国顧問、貴族院議員、内閣顧問などを務めたが、敗戦後は戦犯として一時収監されている。
  戦後は帝国石油などの社長を務めるかたわら、中小企業振興を目的に中小企業団体を設立。昭和三十一年には、それらを母体に中小企業政治連盟を設立した。全国中小企業団体中央会会長、岸内閣経済最高顧問も務めている。
  昭和二十八年にはみずから参議院議員選挙に出馬、当選して政界に転じたが、事件は、その二皮目の選挙のときに起こった。
  昭和三十四年に行なわれた参議院選挙で、同時に出馬、当選した次男の鮎川金次郎氏が、大規模な選挙違反で摘発されたのである。選挙そのものは父子ともに当選したが、鮎川派の選挙違反は、当時としては空前の規模と呼ばれ、運動員が指名手配されて、次々と逮捕された。
  中にはそれこそ日本中を逃げ回り、奄美大島まで逃げて逮捕された者もおり、その都度新聞紙面をにぎわすこととなった。
  結局、政治活動どころではなくなった父子は、年末に議員辞職した。
この選挙違反の一団の中に、中野喜介氏も含まれていたのである。もちろん、指名手配されて全国を逃げ回るなどという醜態を演じることこそなかったものの、起訴されて出廷することとなった。
  当初は出廷したが、のちには入院している。入院先は、市内の国立病院である。といっても、今でこその話だが、この入院は仮病であった。特別室に面会謝絶の札を掲げながら、病室を事務所代わりに、毎日仕事をしていたのである。健康状態が本当に悪くなるのは、もう少しのちのことになる。
  余談だが、こんなことがあったので、その後病院で面会謝絶の札を見ると、「中の人は本当に病気だろうか」などと、妙なことを考える癖がついてしまった。
  結局、中野喜介氏は、実刑で下獄することこそなかったものの、有罪判決を受けている。
  裁判で争っている間は、どうしても頭のどこかで始終そのことを考えているところがある。選挙違反に問われたこと、そしてその裁判に長い時日を費やしたことは、中野喜介氏から、明らかに時間と気力を殺いだようだった。こうしたことがなければ、例の「駅ビル計画」も実現していたかもしれない。
  鮎川氏とどの程度関係があって、このようなことに巻き込まれたのか詳細は不明だが、中小企業団体との関わりはあり、立川では昭和三十二年に中小企業政治連盟立川支部が結成されている。
  そして中野喜介氏は、昭和三十八年には東京都商店会連合会会長に就任し、日本商店会連合会会長も務めている。前任者は赤坂にあったレストランシアター・ミカドのオーナーで、名古屋で中部観光自動車を経営していた山田春吉氏だったが、経営破たんで退任していた。
  昭和四十三年三月一日の衆議院商工委月余には、全日本商店街連合会会長として、全国中小企業団体中央会の専務理事といっしょに、参考人として出席していることが議事録に残っている。(議事録略)
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  この日の議題は、中小企業の振興及び金融に関する問題についての参考人からの意見聴取。午前中には、全国相互銀行協会会長、全国信用金庫、協会会長が、参考人として意見を述べている。                                                         なお、前に昭和三十四年の選挙違反の時に仮病で入院したと書いたところで触れたが、中野喜介氏の健康状態は、その後すぐれなくなり、昭和四十二年の渡米中に悪化して急きょ帰国の途に着く。病は肝臓だった。以後は以前のような健康は保てない状態が続いていた。
  だが、健康状態が悪化しても、もはやゆっくり休んでばかりもいられない位置にあった。のちに東京都議会議員選拳でも、支援した候補の選挙違反に問われ、二番、二審、最高裁まで争ったが、このときは本当に病床にあった。
  国会に参考人として出席した際も、体調は本調子ではなかっただろうと思われる。この前年十二月、立川商工会議所の大貫昇二副会頭を委員長とする中野喜介氏胸像建設委員会の手で、市内に胸像が立てられた。その除幕式に出席した頃は、本当に病気が進んだ状態だったのを記憶している。
  もっとも、常に体調が悪かったわけでもなく、一進一退という状態だったのかもしれない。住田義弘氏は、昭和三十八年から数年間、中野喜介氏を交えた五~六人で、正月に入間の中野原神社に参拝するのを通例としていた。その際、酒が入ると中野喜介氏は、子供の頃交番で喧嘩をした話などを陽気に語っていたという。
  この頃ベトナムへのアメリカ軍の介入が本格化し、彼の地では五十万のアメリカ軍が戦っていた。だが米空軍の東京における比重は、既に立川基地から福生の横田基地に移りつつあった。
  昭和三十年代を通じて闘われた砂川の基地拡張反対圃争の結果、立川では基地の拡張が頓挫し、新鋭機、大型機の発着が難しいことが原因であった。一方、旧陸軍の航空基地時代から立川飛行場の付属飛行場だった横田基地は、五日市街道を寸断し、八高線や国道を迂回させて拡張された。
  現在、東京で「基地の街」といえば、誰しも在日米軍司令部を迎えた横田を連想するだろう。

  『立川~昭和20年代から30年代』ガイア出版


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