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こころの漢方薬 №37 [心の小径]

女の生命力は料理にあらわれる

                             元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾

  「文学界」による一九八八年度文学作品ベスト5は耕治人氏の「そうかもしれないが」がトップであった。夫だといわれても「そうかもしれない」と答える恍惚の人となった妻を描いたもので、この作品を掲載した雑誌が発売された昭和六十三年一月六日、耕氏は八十二歳で亡くなった。
  前作の「天井から降る哀しい音」が発表されたのは一九八六年つまり昭和六十一年夏であったが、これは容赦のない老いのなかで、肩を寄せあって生きる八十歳の老夫婦の日常生活を描いて、老年文学の真骨頂という高い評価を得た。呆け老人になった妻は料理のたびに鍋をこがして真っ黒にする。民生委員の世話で、区役所の老人福祉課は火災報知機とガスもれ警報器を設置した。妻が台所に立っているとき頭の上の警報器が鳴り出すのだが、主人公が天井を見上げると赤い小さな灯がついたり消えたりしている。助けを求めるような悲し気な音だったと作者はしるしている。「天井から降る哀しい音」には次のような印象的な場面がある。

 襖が一杯あき、電燈の光を背中に受け、家内が立っている。
 「ご飯の支度が出来たのよ。起きて頂戴」
 寝呆け頭でベッドをおり、板の間の方へゆき、テーブルを見ると、私と家内の茶碗やお椀、箸、いくつかの皿が一杯並んでいる。しかし中味はないのだ。白ら白らと寒むそうな感じだ。時計を見ると三時だ。

  私は「天井から降る哀しい音」を読んで、耕氏の「料理」という昭和二十五年の短篇を思い出した。「料理」は耕氏とおぼしき主人公が小説を書くために訪ねていった長崎の止宿先、安中家で、毎日朝昼晩、思いがけぬ御馳走責めにあい、かえって東京に残してきた妻の素朴で質素な手料理を切実に求めるという内容である。料理がその家の空気を支配するという特異な主題のものであった。

  家内の料理がいま、痛切に胸を締めつけられる思いで浮かんできた。安中家の料理と違って、ほんの魚のひと切れ、わずかな野菜の煮付けだ。しかしそれが、いかに清潔で豊かな生命を含んでいることだろう。魚の切り方によるのか、煮付け方か、それはわからないが、食えば直かに私の身体を養ってくれる気がした。

  ねんばりしたものいいをする肥った女主人の生理的な重みが贅沢な料理の数々によどんで、その雰囲気にいつか主人公がのまれていくさまは、食事毎の黒猫の出現におびえる様子や、ふと気づいたひき出しの多い異様な机のかたちにおどろくところなどの小道具のあしらいに、まことに見事に描かれている。主人公が見ていると、こちらをうかがうように決して餌を食おうとしないその家の肥え太った飼犬までが奇妙にみえてくる。
「女の生命力は料理にあらわれる。大げさな言い方をすればこれが私の女性観だ」というのが、短篇集の序文にのべたこの作品についての作者のことばである。思えば晩年十年余にわたる耕氏と私の縁が生じたのは「料理」がきっかけであった。
  「料理」は、現在私の編集している「食の文学館」(紀伊国屋書店)の前身にあたる「食食食」という季刊誌に復刻掲載された。その雑誌の七号以降の編集の依頼をうけたとき、私は食を主題の小説を発表することを条件に引きうけたが、一番手に考えたのが「料理」だった。それが作者の丁寧な改稿を経て実現したのが「食食食」の九号(昭和五十一年)である。
  「天井から降る哀しい音」を私は著者から頂いた。たべもの、料理の話題を中心に老妻の呆けを描いたこの著書を送るとき、旧作「料理」を雑誌や単行本としてあらためて世間にひっぱり出した私に、作者は何らか訴えたかったにちがいないと私には思えてくる。氏の自筆による東京医科大学付属病院一三五六号室耕治人と署名された昭和六十二年十月十六日のスタンプを捺した「食の文学館」の購読申込書が届いたのは、それから間もなくであった。その通信欄で、耕氏の入院をはじめて知った。当時の事情からみて「食の文学館」を必要とする状態ではなかった。好意から出た義理であり、自然なかたちをよそおった通信だったのではないかと思えてくる。院長がたまたま私の中学の同級生だったので、院長の案内で耕さんを見舞ったが、氏らしい人一倍の律義さをみせてちょこんとベッドに坐った耕さんが大変恐締しながらもよろこんで貰えたらしいのが、今になってみるとせめてものなぐさめである。
  深夜一片のたべものもない、茶碗だけ白く光った食卓に夫を誘って、「どうぞ」とすすめる老妻の突然の異変に出会う「天井から降る哀しい音」の作者のはげしいおどろきと欺きには、「女の生命力は料理にあらわれる」という「料理」の主題が、かえって逆光線のように働いている。

『こころの漢方薬』彌生書房

 


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