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立川市長20年の後に№15 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川市長20年の後に№15
公私混交の奇縁
                                     前立川市長 青木久

俺の収入役をやってくれ・宮伝町長の一言
 昭和31年(1956)の暮。若松派の有力者・鳴島勇さんがやって来た。
 「おい久君、宮伝町長が、お前さんを収入役に欲しいと言ってる」
 私はポカンと口を開けた。とんでもない話だ。声も出ない。そんなことを考えたこともない。
 「冗談じゃないです。からかうのは止めて下さい」 
 ついで町会議長の小林皆吉さんも同じ口上を言いに来た。
 宮伝派の取りまとめ役・町議の内野茂雄さんは、
 「砂川闘争を抱え、宮伝は真剣だな。頼りになる若者が欲しいんだ。青木家が、若松派だというのは、誰でも知ってる。だのに、お前を指名したのは、お前の人物を見込んでのことだろう。お前ももう31歳だ。収入役といやあ町の大役だが、この話は受けろよ」
 そばにいた父親もうなずいた。こうなると、私はうなずくしかなかった。
 明けて昭和32年(1957)1月20日、宮伝町長提案による私の収入役就任は、町議会全員一致で承認された。その決定を目の当たりにして足が震えた。町役場の職員を前に、
 「みなさん、私は生まれてこの方、ただの一度も金の勘定などをまじめにやったことはありません。まして、金の出し入れをどうやって取り仕切るのかは、全く知りません。でも、懸命に勉強します」
 役場の中には、級友が何人もいた。先輩たちは、丁寧に教えてくれた。みんな仲間だった。支えられて学ぶ毎日が始まった。
 翌昭和33年度(1958) 砂川町の年度予算規模が1億円に達した。それを契機に、奇妙な意見が役場幹部と町会議員の中からこぼれ出てきた。
 「町の予算規模の成長は喜ばしい。ところがだ、その元締めの収入役は独身である。世帯を構えていない男に、この大金を任せるのはいかがなものか」
 こうした声に宮伝町長は、大笑いした。
 「久よ、誰もお前が能力がないとは言ってない。身を固めろ、男の能力を発揮してな」
 私は困惑した。こんな理不尽なことはない。とはいえ、世帯を構えるのとなれば相手が要る。相手となれば、あの人しかいない。

夜間学習の1年は……
 数年前、西砂小学校からオルガンの旋律が聞こえてくると、奇妙に胸がときめいた。合唱する生徒の幼い声を包み込むように澄んだメゾソプラノが流れる。竹下幸子先生の授業だ。学校のそばの旧教員官舎(木造平屋の3間)に住んでいる。明るい性格で指導にあたり、生徒に慕われている。くっきりとした瞳に理知的な額が特徴なのだ。
 5年前の昭和26年春、鹿児島から上京。東京都の斡旋で、音楽教員の補充を求めていた西砂小へ赴任してきた。船員だった父親が中国・揚子江の航路に勤務していたため、昭和4年(1929)上海で生まれ、小学校・高等女学校を終えた。敗戦とともに郷里鹿児島へ引き揚げ、激変した生活環境の中で鹿児島師範を卒業。2年間、県内の中学で教壇に立っていた。
 竹下先生が赴任してまもなく、西砂小の高橋正緩校長を経由して、英語を教えて欲しいと申し入れがあった。胸が弾んで即座に承諾。
 それから……週に3度、夜間学習が始まった。
 夕食を終えると、私は官舎を訪ねる。テキストに選んだのは、愛用していた『三位一体綜合英語の新研究 : 新英文解釈・新英作文・新英文法』だ。
 熱が入ってくると、二人は近接する。その熱気に若い女性の香りが漂う。その香りに私はむせる。だが、ちらっと見やると竹下先生は、真摯な生徒そのものだ。刺激を振り払って、私は教師をつとめる。
 幸子先生は、ひたむきに課題に取り組んだ。学力はめざましく向上する。
 昭和28年(1953)、幸子先生は、国立音楽大学声楽科に合格、西砂小を辞して砂川昌平宅に下宿。
 夜間学習がなくなると、心の中に空洞があいた。そして私は、いつしか物思いに耽る男になっていた。
婚姻が町政の案件に
 私は追い詰められていた。思い切ってあの人に「嫁になって欲しい」と言えばすむことだが、それが言えないばかりに、物思う日々が続いている。
 西砂小以来の親友・砂川昌平は町議の一人だ。昌平は、私の肩を叩いた。
 「青木、どうするんだ。相手はいるのか」
 「うん、まあ、はっきりしている訳じゃないが……」
 昌平も笑った。
 「相手が幸子さんだとは、みんな知ってるよ。お前は町の幹部だ。だからお前の婚姻は、重大な町政の課題だ。だから、さっさとお前が話をつけろ」
 「それがその……」
 「俺はお前の友人だし、町議だからな、俺が取り仕切ってみんなに諮る」  
  それから昌平の動きは素早かった。わが家の両親と竹下幸子さんに、町議会は収入役青木久と竹下幸子さんが、結婚することが好ましいと議決したと伝えた。両親は、はるか遠方の鹿児島の女性を嫁にするとはと難色を示したが、町議会の議決の前には、町民として受けざるを得ないと了解した。
 肝心の幸子さんは、
 「私も町議会の議決だそうですから、嫁にならせていただきます」
 とにこやかに頭を下げた。
 「何分、よろしくお願いします」
 私は、あわてて最敬礼した。私は自ら申し込みをしないで、幸子さんの承諾をもらってしまった。ことこのことに関する限り、意気地のない自分がはがゆかったが、私の物思いは瞬時にして消えていた。
 町政に差し支えるからと4月1日、わが家の3つの座敷をぶち抜いて披露宴を行った。町長、助役、教育長、町会議長、町会議員、親類縁者、地元の人たちにお出でいただいた。
その席で、宮伝町長が、
 「お互いに似通っている点を探すなよ。そんなものはごく僅かだ。どれだけ違っているかを探すが良い。見つかると愉しいぞ。その違いは相手の特色だ。それをいたわり、思いやるんだ。お互いを立てあうと息のあう夫婦になる。町の政治の基本もそれだ」
 心に染みる言葉だった。
 あの和やかな宴の光景は、今も瞼に鮮やかだ。若松派も宮伝派もない、砂川町の集いの夜だった。
 こうして、大勢の人に祝福されたその日を境に、幸子さんは、わが家の幸子になった。
  しばらく経って、私は町議会の議事録を調べたが、私の婚儀に関する議決はどこにもなかった。
 町会議長と、砂川昌平は、思い出し笑いをしながら、
 「あれは、特別案件だったからな。傍聴禁止の秘密会で審議した」
 こうして、久・幸子の夫婦は、町の人たちの好意と友情の輪の中で結ばれた。みなさん、ありがとう。 


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