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昭和の時代と放送№2 [アーカイブ]

時間メディアの誕生
                                   元昭和女子大学教授 竹山昭子

無線電話(ラジオ)の公開実験-新聞社による先駆け①
 1920年代、日本では、逓信省をはじめ陸海軍、鉄道等の諸官庁だけでなく、民間でも無線電話(ラジオ)の研究が進められており、社会一般が放送に深い関心を持つようになっていた。マスメディアでは新聞、雑誌などのプリント・メディアが新しいメディアの登場を積極的に取り上げ、なかでも新聞企業は、ラジオの持つ速報性・同時性というジャーナリズムとしてのすぐれた機能に注目した。かれらはこのすぐれた機能を持つメディアを掌握したいと考え、さらにラジオにコミットすることによって新聞事業を発展させたいという意欲を持ったのである。
 こうして主要各新聞社は、政府がラジオ放送について具体的な検討を始めた1922(大正11)年ごろから、いっせいに、一般市民に対するラジオ情報の紹介や知識の普及に乗り出していく。むろん、逓信省や大学、無線研究者なども無線電話の実験を行っているが、一般社会へのラジオ知識の普及に大きな役割を果たしたものとして特筆すべきなのは、新聞社による公開実験であった。 新聞社は新しいメディアの誕生を情報として紙面で取り上げるだけでなく、一種のイベント・キャンペーンとして、積極的に企業活動を行ったのである。
 そのころから放送開始の1925(大正14)年にかけての新聞社によるキャンペーン活動は、まことに華々しいものであった。『東京放送局沿革史』は「民間に於ける放送実験」の節を立てて、「実験及び運動が我放送事業実現の為め非常に有力なる寄与であった事は云ふ迄もない」(註1)と書き、1922(大正11)年の「東京日日新聞社」「東京朝日新聞社」、1923(大正12)年の「東京日日新聞社」「報知新聞社」、1924(大正13)年の「大阪毎日新聞社」、1925(大正14)年の「大阪朝日新聞社」の名を、他の研究機関とともにあげている。
 しかしこの時期に新聞社が行った企業活動は、後年、あまり顧みられることがない。そこで、日本のラジオ放送開始以前における新聞社による公開実験のいくつかを、ここに取り上げてみよう。

▽東京朝日新聞社は、政府がラジオ政策・監督について検討を始めた1922(大正11)年、東京上野公園で開催された平和記念東京博覧会(3月10日~7月31日)の会場に受信装置を設け、6月2日から、京橋の東京朝日新聞社屋上の送信装置によってレコード音楽を送った。これは屋上で開催中の芸術写真展覧会の会場から「無線電話実況公開」と銘打って電波を発信したもので、博覧会の電気工業館に設けた安中電機製作所の出品所で受信した。「東京朝日新聞」は「屋上に設けられた無線電話も頗る(すこぶる)好人気で終日混雑を呈した」と記している。(6月3日紙面)
▽「東京日日新聞」1922(大正11年9月16日の記事の見出しは「日本もいよいよ無線電話の時代」とある。
 無線電信電話の要求切実になって来た。何事も新し好き発明好きの米国ではこの春から一般の無線電話が許可されるや、発展はおどろくべき程でブロードキャッスチングステーション(音楽や演説の送話をする会社)は既に百ヶ所を越え、受話機を持ってゐるものは百万人を越す盛況(中略)英国でも無線電話の一般許可をしきりに渇望してゐたがいよいよ去る五月から実施された。(中略)
 本社の無線電話機の装置方式は東京無線真空球方式で知識普及用として特に逓信省から許されたものであって通話時間は午前十時から午後三時までで、既にお茶の水高等師範大講堂との間に第一次試験を終へたが、その結果は頗る(すこぶる)良好(中略)。
 無線電話は前述の如く未だ逓信省が許可してゐないので勝手に受話機を買って受信する事は出来ないが、若しもこれが許可の暁(あかつき)にはわが社もブロードキャッスチングステーションとして読者の自宅へニュースは勿論音楽、講演等を送話する計画である。(9月16日紙面)

 このように「東京日日新聞」は海外の状況を紹介しながら、日本でも一般の受信が許可され次第「わが社もブロードキャッスチングステーションとして読者の自宅へ」と、放送事業進出への意欲を強く示した。

註1・越野宗太郎編『東京放送局沿革史』東京放送局沿革史編纂委員会 1928 P251


 


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