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ニッポン蕎麦紀行№2 [アーカイブ]

~釧路の蕎麦は緑色・釧路市柏木町~          

                                                                                         映像作家  石神 淳

 前回に続き、また釧路発のエピソードで恐縮ながら、何卒おつきあいください。
 釧路の中心街から少し離れた柏木町で、一見、料亭風の構えとも思える、大正12年創業「竹老園東家総本店」の歴史は幕末に遡る。いささか講談調になるが、時代は明治2年。幕末の混乱を逃れ、越前福井藩下級武士の伊藤文平一家は、北前舟の船底で耐えに耐え、食うや食わずで小樽港にたどり着く。何とかして家族を養わねば、ジキに酷しい冬がやってくる。文平は武士のプライドをかなぐり捨て、屋台の蕎麦屋で寝ずの商売に励み一家を養った。                     
侍あがりの文平は、けっして商い上手とは言えなかった。文平の息子の竹次郎は、そんな小樽の暮らしに飽き足らず、家を飛び出し、当時、文明開化で華やかな函館に新天地を求めた。やがて、人も羨む出世を遂げるが、不幸にして明治40年の函館の大火で繁盛していた蕎麦屋を失い呆然となる しかし、ここで挫けなかったのが竹次郎のド根性だ。裸一貫となった竹次郎は、こんどは築港景気にわく釧路に活路を求め再出発したが、運悪く便乗した海産物問屋の回船が大シケで遭難。真冬の海に投げ出された竹次郎は、命からがら南部海岸のオコッペに打ち上げられた。                                                                     無一文の竹次郎が、幽霊のような姿でヨロヨロと釧路に辿り着いたのは、明治も終わりに近い年の瀬だった。その後は、まさに爪に灯をともすような赤貧の暮らしが続き幾年月。やっと貯めた金で小さな蕎麦屋を開店するが、またも近所から出た火事で類焼の憂き目に。「人生、七転び八起き」竹次郎は東家を再建した後、雪深い越後の栃堀村から、養子の星野徳治を迎え、関東の「藪」で聞こえた緑色の御膳蕎麦をお手本に、(釧路の蕎麦は緑色)と思わせるほど、竹老園東家の基盤を築く。幕末にはじまる「東家一代記」は、地元劇団の手で上演され、喝采を浴びた。

 昭和2年、養子の徳治が竹次郎のために建てた隠居所は、東家総本店として当時の姿で商いを続けている。老舗「藪」とは姻戚関係はないが、御膳粉を使った緑色の蕎麦と、甘酢をきかせ海苔で巻いた(蕎麦ずし)は、確実に釧路の市民権を得た。                                                                      「父は、蕎麦に凝り固まった男でした」店主の正司さんは、徳治の思い出を懐かしげに語る。看板メニューは先祖伝来の(緑色の蕎麦)だが、東家にはもう一品、誇りとする蕎麦がある。それは、御膳粉を色鮮やかな卵黄だけで打つ「蘭切り」だ。卵の黄身だけで打つ蘭切り蕎麦は、見た目も鮮やかに食欲をそそる。昭和天皇ご夫妻が釧路湿原をご巡行おり、蘭切り蕎麦が献上された。「たいへんにお気に召され、おかわりをされまして・・・」そこまで話すと、正司さんは、感極まって言葉に詰まった。店先では、東京から帰ってきた、大手家電メーカーT社コンピュータ技師だった、息子の純司さんが司令塔を務めていた。 
 東家の蕎麦は、手で捏ねて機械で切る。「客を待たせず出来立てを食べて貰う」竹次郎が編み出した商法で、そのために製麺機を入れたそうだ。そのチームワークのよさに納得させられた。とかく「老舗は暖簾に胡座」と言われがちだが、デンと構えた伊藤徳治の胸像が、四六時中店を見守っていては、気が抜けそうもない。道産子として釧路に根付いた開拓精神が、ここにも息づいている。
     
 竹老園東家総本店 北海道釧路市柏木3  電話 0154-41-6291
                                                                               


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