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雨の日は仕事を休みなさい№5 [アーカイブ]

物事にとらわれるのはやめなさい~人の世の儚さ(はかなさ)を理解しろ

                   

                                    鎌倉・浄智寺閑栖 朝比奈宗泉

 

  私は今年で85歳になりますが、大して体調を崩すことなく毎日を過ごしております。日本人の平均寿命は男女とも世界一だそうです。喜ばしいことですが、なかには「老いる」ことに恐れを抱いている方も多いのではないでしょうか。しかし、「老いる」ことは決して「死」への一里塚ではありません。たわわに実った「人生の実」を収穫し、後世に残すという時期なのです。

 とはいえ、かくいう私も、ときどき老いに対する恐怖めいた感情を抱くことがあります。たとえば朝起きて雨戸を開けるとき、戸がぎこちなく音を立てたりすると、「自分も、この雨戸と同じで、いずれ開かなくなるのではないか」と。でも、同時にこうも思います。「だが、今日のところは大丈夫。ならば今日やるべきことを、きちんとやり遂げよう」と。毎日がこのくり返しです。

 ある檀家さんの一人が、長年連れ添った奥様を亡くされ、たいそう気落ちしておられました。ある日、お話しする機会があり、近況をおうかがいしてみますと、「今は何もやる気が起きません」ということでした。そこで、境内の庭木の世話でもしてみませんかとお誘いしました。その方は不承不承でしたが、翌日から寺におみえになり、庭仕事に精を出しておられました。そして、一週間ぐらい経ったころから、その方の表情が生き生きとしてきたのです。

 また、こういうこともありました。十年ほど前、東大を卒業して司法試験に挑戦中の若い人がおり、受験に失敗し、大変落ち込んでいたそうです。そこで、彼の知り合いの人が浄智寺へ連れてきて、「司法試験に失敗したことばかりを考えている。少し庭掃除でもさせながら落ち着かせたい」ということでした。もちろん私どもに異存はありません。その後、一週間に一、二度やってきて、朝から夕方まで庭掃除をするようになりました。

 彼は非常に真面目な優しい青年で、寺の人たちとは誰とでも気さくに話すタイプでした。裁判官志望で勉強中だということはみんなが知っていましたから、「どうだい、勉強しているかい」などと声をかけたりしていました。そして、二年ほど通ってきたころには司法試験に合格し、現在は当初の志望通り裁判官になっています。

 先の奥様を亡くされた方もそうですが、この青年にしてもあまりにも目の前のことにとらわれすぎて、己を見つめる努力が必要だったといえます。物事にとらわれすぎると本質を見失いがちです。庭掃除という作業を熱心に続けることで、日頃の煩悩や妄想を忘れられたのです。その無の心境が心を落ち着かせ、己の新しい生き方に立ち向かう力となったのではないでしょうか。

 竹影掃階塵不動 月穿澤底水無痕(竹影階を掃って鹿動ぜず、月渾底を穿って水に痕無し)『普燈録』巻七 

                                                                     

 「竹影階を掃(はら)って塵(ちり)動ぜず」とは、竹が風で揺れて動くので、影が階段を砕いているようだが、塵は少しも動いていない。「月たんていを穿って水に痕無し」とは、月の光が深い湖の底まで差し込んでいるが、どこにもその痕跡はみられない、という意味です。両句は対句になっており、同意語です。東慶寺と浄智寺の住職をされた私の師匠の井上禅師は、幽冥境を異にする旅立ちをされる(亡くなられる)方のために、この両方の句を朗々と詠まれ、一喝して引導とされていました。

 いずれも煩悩や妄想など微塵もない研ぎ潜まされた無心の境地を端的にあらわしています。また、どちらからも自然界の静かな動きのなかに、無情ともいえる厳しい静寂さを感じさせられます。しょせん、人生とは竹の影や月の光の痕跡のような寂しいものなのでしょうか。この儚さをよく理解し、噛み締めて自分なりに乗り切ることができれば、立派に人生を全うすることになるのです。

 ここで鎌倉円覚寺の開山、無学祖元禅師の逸話を紹介します。

 宋末の徳祐元年(1275)に元の大軍が宋に乱入してきたとき、禅師は泰然として次の偈を唱えこれを押し返しました。その第四句「電光影裏春風を斬る」(でんこうえいりしゅんぷうをきる)も有名です。私を斬るなら斬れ、春風を斬るようなものだ。煩悩や妄想を棄てきった禅師に、元の兵士は庄倒されて退散しました。この限界が迫った状況下で、一切空の境地でおられた禅師の心根こそ、現代人も学ぶべき大切な心のあり方です。まさに塵一つ動かない静けさの心になることです。

『雨の日は仕事を休みなさい』実業之日本社


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