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ニッポン蕎麦紀行№1 [アーカイブ]

~開拓の心いまだ忘れじ・釧路鳥取北~            

                                                                                           映像作家  石神 淳

  突然ですが、「あなたは蕎麦にご興味がありますか」。もし蕎麦がお好きなら、しばらく、(蕎麦と人との出会い旅)におつきあいください。
  蕎麦の旅は、北海道に始まる。早春の納沙布岬、少し傾いた貝殻島灯台が波に洗われ、北方領土の返還を願う「祈りの灯」が潮騒に揺らめく。まだ半分ほど氷に閉ざされ、立ち木の影もない野付半島を吹き抜ける凍てつく風と白鳥の群れのざわめき。小舟でも簡単に渡れそうな国後島に舳先を向け、出漁を待ち侘びる漁船が、望郷への思いをこめる。
  北の大地の原野にある牧場は、見捨てられたように静まりかえり、年老いた道産子が長いたてがみを寂しげに靡かせていた。その別海の開拓村を離れ、いまは釧路郊外の鳥取北で蕎麦屋を営む、山口シュウさんの「いなか家」を訪ねた。山口シュウさんは両親といっしょに幼女の頃、開拓者として埼玉県秩父から、まだ道路も電灯も無かった根室原野の別海に移住した。昭和初期のことだ。痩せた原野を開墾すると、故郷秩父から持って来た蕎麦の種を蒔く。蕎麦は救荒作物として一家を飢えから救ってくれた。長女に生まれたシュウさんは、芋俵一俵を一人でかついで馬車に乗せ、13歳からおぼえた蕎麦打ちでは、蕎麦粉の繋ぎに牛乳を入れてみたりの工夫もした。そんなボソボソの太い蕎麦は「ドジョウ蕎麦」とも呼ばれた。年頃となり、嫁に行った先の夫は白糠炭鉱の採炭夫、シュウさんも食堂の賄い人として、蕎麦屋の開店資金を、二人で一心不乱で貯めたそうだ。
  シュウさんの打つ蕎麦は、開拓農家時代から習い覚えた素朴な田舎蕎麦で、まさにシュウ流だ。打ち方も一風変わっていた。麺棒は40㎜径ぐらいだったと思われる軽い桐材のようだが、擦り減ってデコボコした杖のように変形して原形をとどめていない。強いて言えば長芋のようでもありオブジェのようにも見えた。40㎜ぐらいだったと書いたのは、あくまで推定であって、普通の麺棒には見えないシロモノだ。蕎麦包丁も先端が細くなった三角形だが、元は普通の四角い包丁だったそうだ。三角形に変形した理由は、切り方にある。捏ねあがると、小さなフランスパンぐらいの大きさに切り分けて丸くのし、たたみをせずに板を当てがい、スーッ、スーッと裁断する。まさに檜枝岐地方に伝わる「裁ち蕎麦」の技法だ。この方法だと、麺を折らずに済むので、繋がりのわるい蕎麦に対して合理的だ。それにしても、山口さん一家の出身地である秩父地方にはない打ち方だから、檜枝岐出身の人から教わったのかも知れぬ。でも、このシュウさんの打ち方は、最小限の狭い場所で作業できるから、白糠炭鉱の賄い婦時代に、自分で編み出した打ち方かも知れない。取材でお邪魔した時は、嫁に出した娘さんの千恵子さんと二人で店を切り盛りしていた。
蕎麦打ちを通して、その地方の暮らしにふれると、文化の一端が見えてくる。北海道は、本州各地から移住した人たちから受け継いだ文化が、いろいろな形で残されている。それはともかく、シュウさんが辿った凡そ80年の人生は、汗と忍耐のイバラの道だっただろう。そして、シュウさんの蕎麦には、紛れもない「開拓精神とオフクロの味」が込められていた。北海道の旅(蕎麦と人との出会い)は、まだ続く。
「いなか家」 北海道釧路市鳥取北6-3 電話 0154-51-5902


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