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書(ふみ)読む月日№2 [アーカイブ]

願はくは ②

                    日本私学研究所特任研究員 池田紀子

 私たちの湯河原の住まいも、簡略な生活をするには、必要にして充分です。

 小平の家からは、二時間もあればついてしまう熱海の前、伊豆半島の入り口なので、135号線の混雑も避けられ、ドライブには適当な距離でもあります。

小田原厚木道路を通って、真鶴道路に入ると、海が見えてきます。

 私は冬の海が好きです。

 真っ青にどこまでも広がっている海を見るとき、諸々の悩み事も消え去る思いがします。もちろん海が見えると、車の窓を開けて、その香りに浸ります。幸せなひとときです。

 韓国に行く飛行機の窓から、真鶴半島を上から見たことがあります。地図で見るそのままの羽を広げた鶴の形で、感動しました。真鶴半島などと、誰が名づけたのでしょうか。言い得て妙だと、通るたびに感心しています。

 真鶴半島を過ぎて、駅前に出る手前に半島の全景が見えます。たくさんの家々が、目の前に広がる様子は、スペインのトレドの町が、高速道路を走っているときに、急に現れるそれと似ていて、嬉しくなる場所です。半島の下にトンネルができて、だんだんに半島への観光客が減っているそうです。便利さと引き換えに、ゆったりとした歩みが失われると、寂しい思いです。

 半島の突端に三ツ石という場所があって、そこに与謝野晶子の歌碑があります。

 

              わが立てる真鶴崎が二つにす相模の海と伊豆の白波

 

 魚や野菜など食物も豊富です。このあたりの食事処で出されるもののほとんどが、相模湾で取れた魚を使います。魚屋の二階での食事は、朝、取れたての鯵(アジ)や金目鯛(キンメダイ)が刺し身であり天ぷらです。本当にその料理の数々は新鮮で美味しく、すぐに、行きつけのお気に入りの店が、いくつかできました。食は日々の生活を明るくも暗くもすると思いますが、大切にしていることの一つです。

 部屋の窓から目を落とすと、湯河原の温暖な気候で育つミカンの畑が、そちこちに見られます。

 温泉場を通って箱根まで三十分はどの道のりを、ドライブするのも気持ちのいいものです。

 湯河原峠からは、富士山が目の前に広がります。

 春は桜、秋は紅葉。木々の間をぬけながら散策すると、そこここに藤村や漱石などの文人が投宿した宿が立ち並び、明治の文壇に思いを馳せることもできます。

最近では推理作家の西村京太郎の記念館もできていて、時々のぞくことが楽しみになっています。

 湯河原の温泉街の中心にある万葉公園も散策には良いところです。カシや椎(しい)の木が生い茂り、千歳川(ちとせがわ)のせせらぎが耳を洗います。

 園内には、数多くの万葉植物が栽培されて、季節ごとに可憐な彩りを楽しめま

す。また、古代建築を模した万葉亭、その傍らには、一つの歌碑があります。

 

              あしがりの土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに

 

 この歌の意味は、足柄の土肥(湯河原)の河淵に湧く温泉が、決して絶えることもないように、二人の仲が絶えることはないと、あの子はいうのだけれど…、という恋する男の揺れ動く心情を述べているのです。

 万葉集には、およそ四千五百余首の歌が収録されています。その中で、この歌だけが温泉を詠んだものとして珍重されています。

 主人と連れ立ち、のんびりと造造すると心が和みます。ふと、万葉集を学んでいた学生時代の教室を思い出したりします。そして国文学を学んでいて良かったなと思います。

 さらに歩を進めると、国木田独歩の碑があります。

 

 湯河原の渓谷に向かった時はさながら雲深く分け入る思(おもい)があった

 

 明治期の湯河原は、豊かな自然の景観に恵まれていたことを偲ばせるものです。

 そしてわが主人は、この碑の前で雄弁となります。

 「あのね、独歩は晩年に三度、湯河原を訪れている。秘かな慕情(ぼじょう)を寄せていた定宿(じょうやど)の女中が嫁いだと聞き、尽きせぬ思いを書いたのが、かの『湯河原より』だね。この碑の文言は、『湯河原ゆき』から採っている」

 蘊蓄(うんちく)を傾けるわが主人は、学生時分に渋谷の喫茶店で、私を相手に文学を語り続けた時よりも、なぜか楽しそうです。

 そしてこの街には、主人が物語るべき多くのことがあります。

 与謝野晶子もしばしば、この地を訪れて逗留し、

 

            吉浜の真珠の荘の山ざくら島にかさなり海に乗るかな  晶子

 

 「この『真珠の荘』とは、真珠荘だよね。春の盛りに見事な枝が海に張りだしていたんだろうね。晶子らしいおおらかな叙景だよね」

 主人は、それからすぐ隣の家屋を指さしました。そこは今、ある会社の社員寮

となっていますが、谷崎潤一郎の晩年の住居・湘碧山房(しょうへきさんぼう)です。

 「谷崎潤一郎は、ここで『新々訳源氏物語』を脱稿(だっこう)したんだ。それ以後、健康がすぐれず生涯を終えられた」

 ミカン問屋の社長さんとも前の畑のおじさんとも仲良しになって、大根や菜っ葉をもらったりします。そのほか、新しい人々との出会いは、すてきな財産だと思っています 『書読む月日』ヤマス文房


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