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砂川闘争50年・それぞれの思い№3 [アーカイブ]

砂川を記録する会代表・星紀市編

「金は一時、土地は末代」反対の一点張りで政府に抵抗①

       石野昇さん(故人)     

      砂川町基地拡張反対同盟・町議会議員・ 全電通労働組合

 砂川闘争が始まったのは、私が初めて町議会議員選挙に当選したときです。定員20名中9番目でした。私が当選して2週間くらい後、今度は町長選で、対抗する砂川三三候補を破って宮伝さんが町長に当選し、その後、基地拡張について相談を受けました。これ以上基地拡張に賛成するというわけにはいかないだろうということで、私の意志としては絶対反対ということをお話しした。

 議会は12日に開かれましたが、その前に地元の意向が大切なので、急遽お集まりいただいて、いろいろ議論しました。掻摘んで言えば、「相手は政府であり、その背後にはアメリカがついている、砂川町のような小さな町が一つになって戦ったとしても果たして勝算ありや」ということで議論に議論を重ねましたが、結果的にはこれ以上農地を取り上げられるということは、農民にとって生命を奪われることになる、これ以上の土地提供は許せないということで、満場一致で決まったんです。そして砂川町基地拡張反対同盟を作るということも決まりました。「全ての事柄については反対同盟に委任する」という地元の意向を受けて、選挙後初の議会が始まり私は拡張予定地内に住む議員として基地拡張反対を提案し、20名中一人の反対もなく満場一致で基地拡張反対を決議したんです。これは全町民の意志として受け止め町全体で反対闘争をしていこう、町議会議員全体が反対闘争委員会の一員となって、地元と一体となって、取り組みを行っていくというような経緯でした。

 基地拡張反対闘争委員会の役務構成としては、小林皆吉さんという方が町議会議長であったので闘争委員長となり、副闘争委員長には副議長の田中君典さん、今立川市議会議長の鳴島さんのお父さんの鳴島勇さん。事務局長には地元の吉沢義秋議員。事務局書記としては、議員ではなく当時砂川郵便局長の志茂威(たけし)さん、二番 (地名)の篠目治助さん、町役場の方、鷹林さん。企画部長には荒井久義さん。企画部員には議員の須崎志摩さん、萩原一治さん、町役場の隣の天城仁朗さん。宣伝部にはよくしゃべるからと、私が宣伝部長を引き受け、佐藤浩太郎さん、安藤慶次郎さん、平井武兵衛さん、馬場幸蔵さん、小沢毅平さん。調杏部が設けられ、調査部長に砂川昌平さん、青木直助さん、清水度三郎さん、石川祐常さん、網代孝さんと、企画部・宣伝部・調査部という部が設置され、地元を中心に第一行動隊が編成され、行動隊長に青木市五郎さん、副行動隊長に宮岡政雄さん。こうした人たちはすでに他界されました。全町行動隊が設置され、行動隊長に内野茂雄さん。私の記憶では、闘争資金として町から十万円ほど、額としてはきわめて少額ではあったが、拠出されたように思います。

 早速、行動に移り、宮野町長を先頭に代表団を編成し、政府なりそれぞれの機関に反対の申し入れを行うという行動を取りました。特に行動に参加する中で、反対の一点張りで政府に抵抗しましたが、条件が何もないなら、話し合いには応じられないとふてぶてしく言った当時の官房長官もありました。

 初めて米軍基地拡張を聞いたときの感想は、「大変なことになってしまったな」というものでした。地元の皆さんが集まった中での話として出されましたが、言うなれば相手は政府であり、そのバックにはアメリカという国がついている。この闘いの勝算ということは自信を持って闘えるという心境ではないことは確かにありました。

 ただ、相手は政府であり、アメリカ合衆国が背後についていたとしても、やはりこの砂川という町の住民の人権というものがあり、「人権を脅かすものに対する抵抗を阻止することは、いやしくも民主主義という戦後保証されたものを覆すということは同もできないだろう、我々が生きる権利として闘っていけば、勝算必ずしも無きにあらず」 というような感じを持ちました。

 しかしながら闘争というのはやはり砂川町の町民として支援も協力も得なければならない。しかし砂川町は何分保守的な町であったので、外部からの支援・協力を受けるというときにも、意識的に、共産主義の思うつぼになってしまうのではないかという感想を持つ人も住民の中にはいました。よって、「誰に協力を求めるのか、誰と共闘するのか」ということは慎重にやっていかなけれはならない。ということで、私も労働組合の役員をやっていましたが、三多摩地区労働組合協議会の事務局長の関口和さんと面識があったので、任されて、地元の出方を見ながら、無理をしないで息の長い闘いとなることを承知して、組織を壊さないようにやっていこうとしたんです。

 しかし、政府は徐々に強硬手段に出、バックに警察も出てくる。そこで労働組合とも共闘していかなければいけないということで、反対同盟として決定しました。労働組合の側から共闘の申し出があったことは一度もなく、反対同盟からの要請に基づいて、労働組合が支援に出るということになったんです。労農提携ということで、初めて共闘が確立しました。

 労働組合では、ほとんど全ての労組が支援協定して、闘争に参加したようです。毎日の闘争であったので、延べにするとかなりの参加があったと思います。砂川には宿泊場所がなかったので、地元の皆さん宅に分散して寝泊まりし、学生は砂川中学校の講堂に寝泊まりしていました。全駐労では、基地がなくなると自分たちの勤め先がなくなるということで、当初、闘争参加に躊躇(ちゅうちょ)していた面がありましたが、やはり日本の民主主義を守る、また、きな臭い軍事基地の拡張に関しては反対だという意志決定を最終的に行い、仝駐労も砂川闘竹に参加するという経緯がありました。我々も全駐労の立場を尊重し、無理のないように、徐々に参加を促したのです。(1998年8月19日インタビュー/1926年生まれ、2002年3月13日没)『砂川闘争50年 それぞれの思い』けやき出版


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