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今日に生きるチェーホフ№2 [アーカイブ]

チェーホフ像を迎えて

                                                神奈川大学名誉教授・演出家 中本信幸

  数年前から本格的に準備され、200310月にチェーホフ没後100年察実行委員会が発足した。文学者、研究者、演劇人が中心であるが、チェーホフ愛好家を含む広い階層の人々を結集しての「草の根運動」的性格の運動体である。 

「日本経済新聞」(2004年1月1日付)が、「演劇や文学館の記念展示など各種のイベントが企画されている。チェーホフの伝統はロシアに生き続け、日本でもその魅力が今なお演劇界を中心に刺激を与え続けている」として、特集《没後100年チェーホフ色あせぬ魅力》を組んだ。その後、多くの全国紙が関連の社説や記事を載せた。 

 世界的規模で顕彰の催しや著作物の刊行が相次いでいるが、わが国のように広範な「草の根」的顕彰は、本国ロシアにも起こっていない。 国際的に著名な彫刻家・美術家G・ポトッキー制作の「チェーホフ像」がロシア当局の認可のもとに、″ロシア国民〟から″日本国民″へ贈呈されたのは、日本での真撃な没後100年顕彰行事に対する国際的認知とみてよい。 除幕式は2004921日に東京都北区王子の駿台学園で駐日ロシア大使A・ロシュコフ、ロシア国立メリホポ・チェーホフ博物館館長ユーリイ・ブイチコフら多数の来賓が出席して盛大に催された。 それに先立ち、九月一六日にはロシア大使館で関連の展示会と記者会見が行なわれた。なお、ポトッキー制作のチェーホフ像が間もなくフランスのニースにも設置される。 

 「チェーホフを敬愛している日本国民にチェーホフ像を贈呈したい」。76日、在日ロシア大使館で描劇場を主宰する畏友クタラチチェーホフから、チェーホフ像の写真を見せられたとき、大使館員とともに考えあぐねた。「善は急げ!」だが、入管手続きなど難問題が多い。しかし急転直下、一件落着した。 異文化教育に熱心に取り組み、旧ソ連・ロシアとの芸術・スポーツ交流を進めてきた駿台学園の瀬尾秀彰理事長から快諾を得たのだ。「没後100年にちなんで、日本で数多くの多面的な興味深い催しが進められ、また、進められていくことは、私ども一同のよく知るところです。この一環としての重要事件の一つは、東京におけるロシアの彫刻家G・ポトッキー制作のチェーホフ像除幕式です。日本でのチェーホフ像除幕式は、真に歴史的な事件ですし、日本の読者と日本の知識人の方々がロシア文学とロシア文化を衷心から深く愛していることを物語っています。ロシア大統領夫人LA・プーチナが東京のチェーホフ像除幕式にお招きいただき感謝している旨、お伝えします」 

 A・ロシュコフ大使が、没後100年察実行委員会宛てのメッセージで述べている。

 「チェーホフ展・チェーホフと日本」(日本近代文学館、9231016日)の準備も兼ねて5月、6月に計二回ロシアを訪問し、モスクワとメリホボ、チェーホフの生地タガンローグを訪ねた。 メリホボで催された第五回国際チェーホフ演劇祭(メリホボの春・2004)と国際学会(チェーホフ没後一世紀。問題点と研究の総括)は、没後100年の最大イベントであった。 

 演劇祭には国内各地とウクライナから14の有力劇団が集まり、イタリアのミラノの劇団も参加した。演目も多彩で、チェーホフを愛し、その真髄に迫ろうとする意欲の感じられる舞台ばかりである。 ウラジオストクの沿海地方青年ドラマ劇場の「これがきみの劇場だ」が、今回の演劇祭の趣旨を代弁していた。題名は、「かもめ」から。商業主義に反旗をひるがえし、「新しい形式」 の芸術について熱弁をふるう若き劇作家コースチヤの台詞だ。「かもめ」が書かれた場所での上演で、演技に一段と熱がこもる。 主催者のブイチコフ館長が、この芝居に触れて、閉会の辞を結んだ。 「演劇祭は、演劇革新の発信基地になっている。これこそあなたたちの劇場だ!」 

 国際学会には、チェーホフ終焉の地バーデンワイラーで国際学会を2回主催したチューピンゲン大学のクルーゲ教授ら諸外国のチェーホフ研究者らが、万難を排して一堂に会した。イラン、台湾が初参加した。 チェーホフ博物館が、作家の終焉の地バーデンワイラーや作家の訪問地セイロンにも設立された。 チェーホフの輪は、時空を超えて、これまで未開拓であった中近東や南アジアにまで広がっている。 チェーホフの小説と劇の登場人物はすべて、ロシア人だ。 チェーホフはロシアのことしか描かなかった最もロシア的な作家とみなされてきた。ところが、没後100年を経て、真に国際的な作家になった。諸外国の人びとが「私のチェーホフ」「わが国のチェーホフ」と呼ぶようになっている。 

 メリホボの国際学会でロシアの研究者S・カイダシ=ラクシナ女史は、 「日本では、桜が数百年にわたって聖なる崇拝物になっている」 と述べ、 「チェーホフは、そのことを知っていて、サハリンからの帰途に日本に寄りたかったが、コレラの流行のために寄れなかった」 と強調した。 チェーホフは、159種類の植物をヤルタの自分の庭に植え、日本の植物も熱心に集めた。日本の桜も植えた。『桜の園』の「桜」に日本の「桜」のイメージが投影されていることは、これまでも言われてきたが、ロシアの研究者が国際学会の場で述べたことは注目に値する。 
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