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戦後立川・中野喜助の軌跡№3 [アーカイブ]

闇物資の出所               立川市教育振興会理事長  中野隆右

  ところで、闇市について語るならば、当然、そこで流通していた閣物資について語らねばなるまい。当時闇で流通していた物資には、前節までで触れたように米軍から流出した物資や、近郊農村などからの食料品以外に、実はもうひとつの大きな流れがあった。       

 それは、旧日本軍の軍需物資である。 

 戦時中の日本は国民は窮乏していたが、なにしろ戦争遂行のために商工省を解体し、軍需省という役所が設置されていたくらいで、軍は多くの物資を確保していた。また敗色が濃くなり、本土決戦が射程に入ってくると、文字通り、国内生産の比重は、すべてが民需から軍需へと移っていた。   

 それらの膨大な物資は、どこへ行ったのか? 前節で語っていただいたA氏が戦後の立川基地で垣間見た光景を語る。 

 「立川の飛行場はアメリカの被害には全然遇っていなかったでしょう。だから、すべての資材なんかみんなあったわけですよ。終戦後もそっくり残っていたわけですよね。それを軍は全然取りにこないで、そのままになっていた。私たちがたまたま基地の残務整理でアメリカ軍に徴用されて使役に出た時、ある倉庫をのぞいたら、新品の日本軍の飛行服とか、飛行隊の半長靴だとか㍉日本刀だとかがかなり残っていました。それはもう必要のないものだから、山積みにされていましたよ。日本はもう何もない、何もないと言っても、やっぱり飛行場あたりには結構あったわけです。それはそれなりの設備が整っていたし、資材もあった。それがいずこかへみんな消えている」

 軍が各所に確保していた物資の中には、戦後配給されたものもあり、私も軍用品の雑嚢が配給になったことを記憶している。

(中略)

 

 ところで、旧日本軍の物資の中には、空襲の激化が予想されるようになった際、被害を避けるため軍の倉庫から周辺各所へ分散保管されたものもあった。「軍都・立川」においても、この物資の「疎開」 は大規模に行われていた。 立川の場合、飛行場の周辺部の農家の蔵などへ、軍の依頼によって預けられている。ある家はリヤカーのタイヤ、ある家へは缶詰、あるいは戦闘機の椅子といった具合に分散収容されたのである。袋詰めの食料が預けられた家では、蔵にアリがわくといったこともあった。 

 ちなみに、砂川の我が家では、砂糖をお預かりしていた。これらの物資は官物であり、「いずれ軍から連絡があるまで保管せよ」 ということであったから、どの家も律儀に保管していた。そのうち軍そのものが解体してしまい、これらの物資は、取りに来る人がいなくなってしまった。もっとも、中には敗戦後になって軍人が家に現れ、持って行ったものもあったようだが。前出のA氏は、この辺の事情をこう語る。 「戦後になって、関係者も何もかもみんな分散しちゃったでしょう。だから、その関係者で、どこに何が隠匿してあると知っていた人は、自分で必要なものだけ取って、軍のトラックか何かを利用して、そのまま田舎へ帰っちゃったなんていう話も聞きます。農家のほうは預かったわけだから、軍から来たと言えば、別にそれをいやとは言えない。だから集めて、どこかヘドロンしちゃったわけです。たとえば自分の家へ持ち帰ったとか」 

 もちろん、回収に現れる人がなかった場合も多く、それらはいずれかの時点で、預かり主の農家自身が処理することになった。ちなみに我が家の場合、預かっていた砂糖は、食品問屋へと消えた。

 いずれにせよこれらの膨大な物資がその後どう処理されたかは、預かった家の人以外、(あるいは持って行った人がいた場合、その人以外) 知る由もないのである。結局、闇市に流れたものも幾分かはあったと考えるべきかもしれない。                 『立川 昭和20年代~30年代』ガイア出版


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