SSブログ

司馬遼太郎と吉村昭の世界№2 [アーカイブ]

司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感 2 

                                エッセイスト  和田宏                                     
歴史小説にいたるまで――司馬さんの場合1

 司馬さんも吉村さんも最初から歴史小説を書いていたわけではない。そこにいたるまでの過程をたどってみよう。そうすると、この二人の歴史小説の本質的な違いが鮮明になってくると思う。
 司馬さんはまず時代小説作家として登場した。
 本人の語るところによると、戦後復員して新聞社に入ったのは、火事を見たら駆け出してゆく社会部の記者になりたかったからだ、が、産経新聞では30歳直前に文化部に異動になり、「もう記者として車庫入りした気分だった、そこでこれから本格的に小説でも書こうと思った」ということである。
 いまの新聞社では文化部の役割は重要であるが、当時の気分としては、そうでもなかったらしい。文化部記者として文学や美術の担当になるが、「こんな高級なことをやらされるなら、出版社に入っていた」ともぼやいている。
 しかし小説を書き始めたのは、すでに社会部時代からで、そのころ京都支局で大学と寺社を受け持っていた関係からであろう、仏教関係の雑誌に発表している。最初の小説は27歳のときで昭和25年(題名は「わが生涯は夜光貝の光と共に」)、作家として決して早いスタートではない。以後、新聞記者としての見聞にヒントを得たと思われる題材をもとに、本名の福田定一名義で数編の短篇を書いている。しかし本人の述懐のよれば、本気で小説を書こうと志したのが文化部転部(昭和28年)以後ということになる。
 作家として芽が出かけていた寺内大吉氏(註1)と同人誌「近代説話」(註2)を立ち上げるため、なにか小説の賞を取っておこうと「司馬遼太郎」という筆名で書いたのが「ペルシャの幻術師」で、それが講談倶楽部賞を受賞した(昭和31年)。13世紀のペルシャを舞台にした、日本人が出てこない伝奇的な小説であった。
 この賞の選考委員であった作家・海音寺潮五郎氏が、ひとり強引に受賞を主張したという伝説が残っている。この歴史小説作家は司馬さんの風変わりな作品の中に作家の天稟を感じたらしい。私自身、編集者として長い間数々の文学賞の下読みを経験してきたが、改めて「ペルシャの幻術師」を読んでものちの司馬さんを予感させるものは何も感じない。私のことなどどうでもいいが、当時の講談倶楽部の編集者もそうだったようで、海音寺氏の慧眼にはいまさらながら驚く。氏の琴線に触れるなにかがあったのであろう。
 4年後、『梟の城』で直木賞を受賞した時も、やはりその賞の選考委員であった海音寺氏が「天才の出現」とまで大推奨した。受賞に反対した吉川英治選考委員に「若いときのあなたにそっくりではないか」と賛同を迫っている。ずっとのちになって海音寺氏は「あの時、司馬遼太郎は天才だといってもだれも賛同しなかったが、それが立証された。少々得意である」と威張っている。
 たしかに忍者を主人公にした時代小説『梟の城』には、それまでの習作時代とかけ離れた完成品が忽然と現れた感じがする。
 さて、作家として表舞台に立った司馬さんは、その後も時代小説を書き続ける。そして直木賞受賞の2年後から「産経新聞」に連載を始めた『竜馬がゆく』の途中で、今までになかったスタイルの歴史小説作家に劇的な変貌を遂げる。それを次回に検証しよう。
 ところで昭和45(1970)年秋、翌年から刊行されることになっている司馬遼太郎全集の収録作品の打ち合わせの時に、私は司馬さんから「『ペルシャの幻術師』は全集に入れない」とはっきりいわれた。自分の作品歴から抹殺したのだった。『梟の城』以前の作品で全集収録に同意したのは、「戈壁(ごび)の匈奴(きようど)」と「兜卒天(とそつてん)の巡礼」の二短篇のみであった。いずれも「近代説話」に発表した作品である。

註1 世田谷区にある大吉寺の住職だったところからつけたペンネーム。本名・成田有恒。直木賞作家。晩年は浄土宗の大本山増上寺の法主を務める。
註2 この同人誌は第11号まで刊行され、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾、伊藤圭一、永井路子、胡桃沢耕史ら多数の直木賞作家を輩出したことで知られる。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0