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王朝の和歌№1 [文芸美術の森]

 忠度の和歌(1)                       

                                                  武蔵野大学教授  松村 武夫

 「王朝の和歌」について、思いついたことをあれこれと記してみたい。
「王朝」というと我が国では貴族文化が盛んであった平安朝時代のこと。
桓武天皇が京都に遷都した延暦13年(794)から源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開く建久3年(1192)まで、約400年間である。
今年は、徳川家康が慶長8年(1603)に江戸幕府を開いてから406年めにあたるから400年というと、江戸時代・近現代(明治・大正・昭和・平成)の長さに匹敵する。
そうなると、どこから始めてよいのか分らなくなる。
 私は日曜日の朝、NHKFMの「能楽鑑賞」の時間を楽しむことが多い。先日は謡曲「忠度」(金春流 シテ 桜間右陣)を聴いた。平忠度は『平家物語』「忠度都落の事(巻七)」「忠度最期の事(巻九)」で親しみ、能「忠度」には何度も能楽堂で接した。今回は、平忠度の和歌について記してみようと思う。とすると、これは王朝末期の話になる。
 平忠度は天養元年(1144)の生まれ、父は平忠盛、兄に平清盛。父忠盛は『平家物語』「殿上の闇討の事(巻1)」で有名だが、歌人としても『忠盛集』を残している。
 『平家物語』の最初の和歌は、西国から上京した忠盛に鳥羽院が「明石の浦はいかに」と仰せられた時、奏上した一首、
   有明の月も明石の浦風に波ばかりこそよると見えしか
である。
 この忠盛は鳥羽院に仕える女房に通っていたが、ある時、月を描いた扇を忘れて来てしまった。
これを同僚の女房たちに見付けられ、「これはいづくよりの月かげぞや」と囃された。
すると彼女は次のように詠んだという。
   雲居よりたヾもり来たる月ならばおぼろげにては言はじとぞ思ふ
「たヾもり来たる」の部分は「月光が洩れる」という意味だが、「忠盛」の名前が掛詞として歌い込められている。『平家物語』には「薩摩守忠度の母これなり」とある。忠度の父も母も歌人だったのである。
  治承4年(1180)富士川の戦いの時、文武に長けた平忠度は、平氏方の副将軍であった。時に36歳。大将軍は平維盛、23歳。『平家物語』「富士川の事」には「副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒き馬の太うたくましきに沃懸地の鞍を置いて乗り給へり」とある。
 9月20日、東国へ出発するとき、忠度のもとに親しくしていた女房から小袖と和歌が届けられた。
それに対する忠度の返歌。
   別れ路を何か歎かん越えて行く関もむかしの跡と思へば
・・・やっと、忠度の和歌が出てきた。続きは、次回。
 


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