海の見る夢 №81 [雑木林の四季]
海の見る夢
-サン・メリーの音楽師~難波田史男―
澁澤京子
学生の時、ボーイスカウトのデンマザーをやっていたことがあった。毎週日曜日、小学校3,4年生の男の子たちと一緒に遊んだり、キャンプに連れてったり・・いやあ、楽しかった・・もしかしたら子供よりもずっと私のほうが楽しんでいたかもしれない。山道を歩きながら子供たちと俳句を作ったり、肝試しでお墓の陰からお化けの真似をしてうんと怖がらせて楽しんだのも、夏のキャンプの時のことだった。あるファンタジーの世界を設定すれば、パッとその異次元の世界に没頭できて集中できるのは、女の子より男の子のほうが多いような気がする。例えば「ここは海ね」と架空の海を設定すると、男の子は本気でそこを海とみなして没頭してしまいがちだが、女の子というのは割と現実的で、男の子よりも自意識が強くて醒めているせいか、男の子のような集中力と思考の飛躍の持てる女性は極めて少ない。(そのため女性のほうが他人のあれこれをやたらと気にして話題にすることを好む)現実的な性質でさらに利己的になると「役に立つ、立たない」を指針に生きる。しかし、優れた科学者や哲学者がほとんど男であるのは、(抽象世界を創造する・世界の構造について考える)能力にめぐまれているのはやはり男性のほうが、架空の世界に没入する能力、要するに童心を維持できる人が多いからだろう。架空の世界に没入できると、たとえば大橋巨泉やロバート秋山のナンセンスギャグの飛躍力を持つし、女性でこういうセンスを持っているのは、ゴッコ遊びとナンセンスギャグと駄洒落の大好きな「不思議の国のアリス」のモデル、少女というよりは少年みたいなアリスだろう。
現実的な人間の中には、やたらと物事に意味付けをして「わかったつもり」で安易にまとめて決めつける人間が多いが、童心ある人間はあえて意味を無効にして飛躍させて楽しむ、要するに自由なのである。
・・子供のこころがなくなろうとしている。おそろしいことだ。18歳
・・ぼくは、このぼくの中に入っていく。ただ、その軌跡だけだ。20歳
~『終着駅は宇宙ステーション』難波田史男
~『終着駅は宇宙ステーション』難波田史男
世俗的なものに背を向け、常に自分の内面と対話していた画家がいる、難波田史男。画家である難波田龍起の息子で、大作「サン・メリーの音楽師」で注目され、テレビでも紹介され、諸新聞で高く評価され、装丁や壁画などの仕事も入り、これから、という時に瀬戸内海のフェリーから海に転落して行方不明になった、遺体が見つかったのはだいぶたってから。事故だったのか自殺だったのかはいまだに不明。享年32。
難波田史男の絵を見れば、誰もが「こんなに繊細な絵を描く人は、早く死ぬかもしれない」という印象を持つと思う。難波田史男の絵は、繊細で子供のように無垢で明るい。天使や小鳥が落書きしたんじゃないかというような細い線描。1941年に生まれた難波田史男はちょうど学生運動が最も盛んな時代に青春時代を送った。在籍していた早稲田大学でも紛争が続き、そうした暴力と闘争に背を向けて、難波田はますます内面世界に閉じこもっていった。別に政治や闘争がなくとも、彼には現実の、世俗社会そのものがそもそも耐えられなかったのに違いない。
難波田の10代から死ぬまでの日記『終着駅は宇宙ステーション』を読むと、クリスマスになると母親がケーキを買ってきたり、大晦日には母と一緒にデパートに行ってお正月の子供用のお菓子を買うとか、パンは明治屋のパンが一番おいしいなどと書いてあって、昭和30年代の東京の中流階級の暮らしぶりがよくわかる。10代の終わりに、避暑で行った九十九里で出会った海女の少女に一目ぼれし、彼女のことばかり書いてある。よほどその伸びやかな肢体の海女の少女を好きだったのだろう、一方、文化学院で出会った都会育ちのお洒落なお嬢さんたちには嫌悪感すら持ち、彼が唯一恋をしたのは、やはり九十九里で出会った人魚のような海女の少女だった。日記は20歳を超えるころからどんどん内省的に、哲学的なものになってゆき、特にドストエフスキーやカフカを好んで読んでいる。
・・不条理の最高の歓びは創造である。この世界においては、作品の創造だけがその人間の意識を保ち、その人間のさまざまな冒険を定着する唯一の機会である。~難波田史男
難波田の絵を見ると、彼が描くことによって精神状態を安定させていたことは容易に想像できるし、学生運動という暴力とカオスの時代だったからこそ、彼が不条理な世の中に背を向けて、自身の内面に美と秩序を見出そうとしたこともわかる。日記には自殺願望とも受け取れる文章が多いので彼の死はやはり自殺じゃなかったんじゃないかという憶測も飛び交うが、確実に言えるのは彼の絵は無垢で、透明な明るい輝きに満ちているということだ。彼には、本当は世界が完全で祝祭されていることがよくわかっていたんじゃないだろか?
「サン・メリーの音楽師」(1968)のタイトルはアポリネールの詩集からとられた。ハーメルンの笛吹きのように、笛吹の男についていった女たちが忽然と姿を消すという内容の詩なのだそうだ。赤、青の原色を基調としたこの明るい無邪気な絵は、良く晴れた日曜日、大通りを通りすぎる賑やかな楽隊のようである。この絵を見ていると、子供のころの日曜日の朝のことも思い出す。日曜日の朝、父か母かどちらかと犬の散歩に行き近所の山王ベーカリーというパン屋でお昼のパンを選んでいるとき、夏の輝く陽射しがパン屋のブラインドから射し込んでいたこと・・難波田史男の明るい絵は、子供時代の幸福な瞬間を思い起こさせるものが多い。そう、難波田史男の絵は、人を幸福な優しい気持ちにさせてくれるような無垢な明るさを持っているのだ。
あるいは「夢の街の人々」(1967)。メーテルリンクの「青い鳥」の思い出の国のようなノスタルジックなブルーの色彩。写真に残された難波田史男を見ると、いきなり地球に放り出され置いて行かれてしまったような居心地の悪そうな表情をいつも浮かべていて、その居心地の悪そうな感じは「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と言った宮沢賢治にとても似ている。
難波田史男の絵はとてもかわいい。19歳の時に描いた不思議な一連の生物の絵は子供でもなかなか描けないような無邪気さがあって思わず見るものを微笑ませるし、難波田の繊細さも明るさも、天真爛漫さも無垢も、すべて彼の無意識にあるものなので、見る人を幸福なノスタルジックな気分にさせるのだ、だから、亡くなった後も長いこと多くの人々を魅了するのだろう。
・・多くの人は言葉を現実だと受け止めます。それはすでに正気を失ったとんでもない混同です。しかし、多くの人は無意識でわかっているとはいえ、上っ面と本質との違いが見えていないと私は思います。~『聴くということ』E・フロム
フロムは「上っ面=所有の人=死に向かう」と、「本質=存在する人=生に向かう」と分類した。所有の人とは、言葉で何でも分かったつもりになるような、上っ面だけで生きる人のことであり、本質で生きる人とは、言葉ではなく自身や他人の無意識に敏感な人のことであり、裸のありのままを知る人のことなのである。~あること(存在する人)は 自己中心と利己心を捨てることを要求する~『生きるということ』E・フロム
文学の読解力を養うのは自分の無意識に敏感になる訓練となるので、フロムは読書、それから集中力を養う瞑想を推奨している。さらに独立性と、物事を懐疑し批判能力を養う事も奨励している。
人の善良さというのは、無意識のうちににじみ出てくるものであり、たとえば一人の、善良な人間がいるとその周囲の人間も思わず優しい気分になり、そういう人物がいる少人数のグループは自然に仲良く一つになる。その逆に無意識の中に強い利己心・支配欲を持っている人間がいると、人間関係は分断され破壊されることがある。人間関係は言語以前の人の無意識から大きく影響を受けるのであって、「対立なし」というのは決して言語化されて人に影響するものではなく、人の無意識にある場合、最も効果的に影響を与えるのだと思う。善良な人とは、他人のことを他人事としてではなく共感できる人なのである。難波田の日記を読むと、彼が自分の内面と日々孤独な格闘していることがわかるが、それゆえに彼の無意識の世界は無垢で善良でありえたのだろう。
‥この世界は逃げ出してゆくという意識が。私をして絵を描かしめるのだ。逃げ出してゆく世界を追いかけながら、私は描くのだ。世界を捕まえようとして描くのだ。世界を、もう一度、キャンパスに度秩序付けたいという意識が働くのだ。~難波田史男
難波田史男はなぜフェリーから転落したのか?一月の冬の陽光きらめく波を見ているうちに、ついふらふらと吸い込まれるように海に入ってしまったのだろうか?彼の最期に見たものは、海の底から見あげたような、クレーの描いた太陽の絵のようなものだったのだろうか?難波田はクレーの著書「造形思考」を正月に買い求め喜んでいた矢先に亡くなっている。消えゆく音楽をキャンパスに表現しようとしたのはクレーだったし、この、もろくてはかない世界を何とかキャンパスにとどめようとしたのもクレーだった。時間は不可逆であるために、風に吹かれて羽根を広げたまま硬直してしまったクレーの「歴史の天使」。難波田史男の表情はどことなくクレーの「歴史の天使」の、呆然とした表情にも似ている。
難波田史男は海の底で初恋の海女の少女に会えたのだろうか?
2024-06-28 13:05
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