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海の見る夢 №80 [雑木林の四季]

        海の見る夢
       -オルゴールと小津安二郎―
                    澁澤京子

・・すべて優れたものは稀であると同時に困難である。『エチカ』スピノザ

優れた映画というのは優れた小説と同じで、年齢を重ねてから見直してみるとその都度新しい発見がある。優れた映画も小説も人の人生経験の深さによって読解するものなのだと思う。私にとって小津安二郎の映画は、漱石やチェーホフと同じように何度も鑑賞したい映画監督の一人。

小津安二郎『麦秋』(1951)の冒頭には、陽当たりのいい縁側といくつかの鳥かご(老植物学者が小鳥を何羽か世話している)のある家の中の風景とともにオルゴールの埴生の宿が流れる。小津映画にはオルゴール音楽がよく使われているが、とてもよく似合う。

「お早うございます」「お早うございます」「いいお天気ですね」「ええ、いいお天気ですわ」こうした形式的な会話が延々と反復されるのも小津映画の特徴で、『お早う』(1959)ではそうした大人の無意味な会話の反復を揶揄して、子供たちの間ではおでこをつつくとおならで返事をするというゲームが流行る。『お早う』の舞台は、まったく同じサイズの平屋建ての家が立ち並ぶ東京郊外の小さな住宅街。ちょうどテレビや電気洗濯機などの電気製品が普及し始めた時期で、その住宅地でテレビを持っているのは子供のない夫婦(大泉晃・泉京子)だけ。オープンなその家はテレビを見たい子供たちのたまり場になっているが、近所の主婦たちにはその派手な夫婦は不良っぽく見え、なんとなく疎ましく思われている。すべてが均質のその小さな住宅地では、少しでも目立てばいろいろと噂の種にされる。きく江(杉村春子)の家では最近電気洗濯機を購入したが、近所のしげ(高橋とよ)ととよ子(長岡輝子)は、婦人会費を集金するきく江が会費を使って洗濯機を買ったんじゃないかと、ひそひそと邪推して陰口を言いあう。

一方、民子(三宅邦子)の長男・実と次男・勇はテレビを買ってほしいとせがむが、父親(笠智衆)に「お前は口数が多い」と叱られ、子供たちは無言のストライキを始める。「大人は無意味な挨拶とか会話ばかりしているじゃないか」という文句を言う中学生の実に対し、近所で英語を教えている平一郎(佐田啓二)は「大人の無意味な会話が、人間関係の潤滑油にもなるんだ。」と諭す。ついに、親に反抗して家出した実と勇を探しに行くのは、平一郎と、叔母の節子(香川京子)で、以前から二人は何となく惹かれあっている。暗くなってから、駅前の電気屋のテレビで相撲を見ていた二人の子供は発見され、二人が戻ってきた家の廊下の灯りの下には届いたばかりのテレビが箱に入ったまま置いてある。翌朝、駅のプラットフォームで会った平一郎と節子は恥ずかしそうに「いいお天気ですね」「ええ。いいお天気ですわ」という会話を繰り返して映画は終わる。噂話や陰口の好きな長屋のおかみさん役を杉村春子、長岡輝子、高橋とよが好演。小さなコミュニティの出来事をユーモラスに描いた小品。なんという事のない話だけど、戦後の日本社会に対する批判もさりげなく入っている。(均質な社会では、目立つと足を引っ張られ疎ましく思われる)大人の挨拶や会話は、ほとんどが(何も考えない)反復によって成立するものであって、子供の(おならゲーム)とたいして変わらないのかもしれない。

小津安二郎の映画で、時間に逆らうのは『晩春』の原節子で、彼女はいつまでも「父と娘」の娘でありたいために結婚を拒絶する。『麦秋』では家族に逆らってお見合い相手とは違う結婚相手を選ぶ。黒澤明監督『わが青春に悔いなし』でもそうだが、原節子という女優さんはあえて周囲に逆らい困難な人生を選ぶ意志の強い女性の役がよく似合う。そして『東京物語』では、戦死した次男の妻で、上京してきた年老いた両親(笠智衆・東山千栄子)を優しく世話する紀子を演ずる。

『晩春』で時間に抵抗する原節子は、『お茶漬けの味』で小暮美千代が女子高時代の同級生と温泉に行き「菫の花咲くころ」を皆で楽しく歌うように、あるいは『淑女は何を忘れたか』で栗島すみ子が遊びに来た同級生に甘えていつまでも家に引き留めるように、やはり「娘」や「女学生」時代の気楽な時間を失うことを恐れる。小津安二郎の映画では、年取っても中学の同級生とゴルフに行ったり、小料理屋に集まったり、温泉で同窓会をするおじさん仲間がよく登場する。昔の同級生と会えば思わずその時代に精神年齢が戻ってしまう大人の姿を描くのが実にうまい。

『晩春』で父と嫁入り前の娘の京都旅行で夜になって電灯を消した後、床の間の壺が月明かりにうっすらと浮かぶシーンがある。いつまでも父親に執着する娘が、父親に抱く近親相姦願望とかエディプスコンプレックスとよく言われるあのシーン。確かに『晩春』の原節子は妖しいまでに色っぽくて美しい。しかし、あの壺のシーンは、ラストの原節子がいなくなった家で、笠智衆が一人で夜リンゴを剥くシーンがあるが、あのリンゴと呼応しているんじゃないかと思う。消灯してからうっすらと月明かりに見える床の間の壺も夜のリンゴも、静まり返った夜中に見る静物というものには、人を圧倒するような妙な存在感があり、壺もリンゴもエロスの象徴というよりは、むしろ静物であることによって、笠智衆の老いと孤独というものを一層強調していないだろうか?そして、原節子が『晩春』で結婚に抵抗するのは父親に対する執着もあるが、大人になることを忌避しているようにも見える。『東京物語』で末娘の香川京子が、大人を軽蔑して嫌悪感を抱いたように・・

『麦秋』で原節子は、家族みんなが薦める(良い条件の)お見合いの相手を断り、戦死した兄の友人である子持ちのやもめを選んで一緒に秋田に行く決心をする。原節子の決意を聞いて、母親(杉村春子)が思わずうれし泣きをするが、原節子の結婚の決意は恋愛感情からというよりも、むしろやもめの息子を心配する母親(杉村春子)に対する思いやりに見えないこともない。そして、そうした思いやりに満ちた意志の強い女性像は、『東京物語』の紀子に続いてゆく。

尾道から、年老いた両親(笠智衆・東山千栄子)が子供たちに会いに東京にやってくるのが『東京物語』である。町医者である長男(山村聡)も、美容院経営の長女(杉村春子)も狭い家に住んでいて仕事が忙しい。実の子供であるだけに甘えがあるせいか、年老いた両親の滞在を次第に疎ましく思う気持ちを隠そうともしないが、戦死した次男の嫁である他人の紀子だけは、田舎から出てきた年取った両親を優しくもてなす。長男(山村聡)の子供たちは、まるで大人の本音を代弁するかのように、年老いた両親に対して残酷な態度をとる。長男(山村聡)と長女(杉村春子)は両親を熱海に行かせることを思いつく。自分たちにとって都合の良い、エゴイズム混じりの善意であるが、熱海に追いやられた年取った両親は騒がしい宿でろくに眠ることもできないので結局、早々に尾道に引き返すことになる。東京から帰省して間もなく母(東山千栄子)は急死する。尾道に集まってきた子供たち。堪えきれずに号泣する長女(杉村春子)、医師として冷静を保つ長男(山村聡)、遅れてやってきた三男(大坂志郎)の肉親を失ったそれぞれの悲しみ方は自然である。そして葬式の会食の時には、「お母さんの一番いい着物、あれ欲しいから出しておいてちょうだい」とケロッとして末娘に頼む長女(杉村春子)。長女は「ハハキトク」の電報を受け取った時から喪服の心配をするような、悪気はないが現実的な女でいかにもリアリティがある。

末娘(香川京子)「いやあねえ、世の中って。」
紀子(原節子)「そう、いやなことばっかり。」

長男も長女三男も仕事が忙しいため、早々と帰ってゆくが、紀子(原節子)だけが一人しばらく残ることになる。末娘(香川京子)は姉や兄たちの見せたエゴイズムに腹を立てる。それに対して「でも、大人になって家庭を持てば、誰だって自分のことしか考えられなくなるのよ。みんなどうしてもそうなってゆくのよ。」と優しく諭す紀子。『戸田家の兄妹』でも同じテーマで、家父長亡き後、邪魔者扱いされた母と末妹(高峰三枝子)は兄妹の家を転々とたらいまわしにされ、そうした兄や姉たちのエゴイズムを激しく非難するのは外地から帰ってきた次男(佐分利信)だったが、『東京物語』で怒るのは末娘(香川京子)で、紀子は誰のこともジャッジしない。さらに自身のエゴイズムをも自覚している人間として登場する。
義理の父(笠智衆)は、紀子がとても親切にしてくれたことに感謝し、妻の形見の時計を紀子にプレゼントする。「あんたは本当にええ人じゃ」と褒めるが、紀子(原節子)はその言葉に対して「いいえ、違うんです、私はずるいんです、偽善者なんです。」と激しく否定して泣き出す。笠智衆が唖然とするほど号泣するが、なぜ原節子はあんなに号泣したのか?紀子の親孝行は甘えのない他人だからこそできた、というのももちろんあるだろう。しかし、紀子の美徳が「偽善」に思われるほど、戦後の日本社会にはすでに利己主義が蔓延していたということもあのシーンは示唆していたのではないだろうか。(そして今もそれは続いている)紀子の号泣には、日に日に忘れさられてゆく戦没者への思い、そして戦後の日本人社会の変わりように対する小津安二郎の秘かな抵抗がこめられていたのではないだろうか?(小津安二郎は中国戦線に送られた。友人の山中貞夫は戦死。女優原節子を発掘したのは小津の後輩である山中貞夫監督だった)

人が自然のままに流されるということは、それは利己主義・エゴイズムに流されるということでもあるだろう、そこにくさびを打ち込んで抵抗したのが紀子(原節子)の存在ではないだろうか?利己主義に流されないためには、おそらく彼女のような強い意志が必要なのだろう。『晩春』では、紀子は大人になることに抗った。『麦秋』で紀子は家族や世間の世俗的価値観というものに抗った。そして『東京物語』で紀子はあえて偽善者であろうとも、世の中の利己主義の風潮に抗ったのである。つまり『東京物語』の紀子は心情でもなく感覚でもなく、ただ「理性」に従ったのだ。そうした紀子の理性を支えていたのは、戦死した次男の存在だろう。紀子という理性的存在は、エゴイズムにあふれた混沌とした世俗世界には、聖女のような輝きを見せる。そして、原節子の明るい美しさと爽やかさはこの役柄にピッタリなのである。

『東京物語』の紀子のようにあくまで人間らしく生きようとするものも、機械人形のように惰性で生きる人間もすべて、ゼンマイを巻かれたオルゴールのように、時がたてばやがて静かに止まってゆくのである。


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