SSブログ

夕焼け小焼け №35 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

上村蔵書のはざまで 2

             鈴木茂夫

 スターリンの率いるソ連は共産党が前衛として、理想的な社会主義国家が建設されているとされていた。文学の世界を作家同盟は規制した。作品の中で共産党が方針を示し、その組織が正しく活動を指導する状況を表現しなければいけないとしていた。
 「若き親衛隊」「静かなドン」などは社会主義リアリズムの傑作とされていた。私も一時期、ソビエト文学にある種の共感を抱いていた。しかし、つまらなくなった。
 スターリン批判が出てソビエトの暗黒面が浮き彫りされた。
 スターリンは何十万人の無辜の人を殺した恐るべき独裁者であると批判され暴露された。パステルナーク、ソルジェニーツィンが描きだした暗黒の世界に、社会主義の虚妄を知った。私はこれらの作品を二度読み直した。そして社会主義への幻想は消えた。
 
石原慎太郎「太陽の季節」、大岡昇平「レイテ戦記」、山田風太郎「柳生忍法帳」、野村胡堂「銭形平次捕物控」、江戸川乱歩「孤島の鬼」、羽仁五郎「都市の論理」、五木寛之「青春の門」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、三島由紀夫「禁色」、ジャン・ジュネ「泥棒日記」レイモン・ラディゲ「肉体の悪魔」、ロマン・ロラン「愛と死との戯れ」、高村光太郎「智恵子抄」、ジャンポール・サルトル「嘔吐」、谷川俊太郎「20億光年の孤独」、有吉佐和子「紀ノ川」、木下順二「夕鶴」、エーリヒ・レマルク「西部戦線異状なし」、和辻哲郎「風土」、 開高健「裸の王様」、キェルケゴール「死に至る病」原田康子「挽歌」、田中英光「オリンポスの果実」、有吉佐和子「紀ノ川」、太宰治「人間失格」、織田作之助「夫婦善」、中島敦「山月記」、埴谷雄高「死霊」、坂口安吾「白痴」伊藤整「小説の方法」、ス」、井伏鱒二「黒い雨」、有島武郎「或る女」、丹羽文雄「親鸞」、宮本百合子「貧しき人々の群」石川達三「蒼氓」、直木三十五「南国太平記」、

 昭和19年(1944年)4月からはじまったレイテ島の戦いで日本軍は84000人の犠牲を出した。大岡昇平の「レイテ戦記」は、戦いの現実を克明に描写している。
 大岡昇平は「私は『レイテ戦記』を特に歴史と考えて書いたわけではなかった。民間の一個人として完全な歴史を書くには資料が不足しているのである。〃〃多くの僚友が惨めな死に方をした。戦争という非情な殺戮の場に巻き込まれた人間の惨めさを私は書いた。当時はレイテ島戦闘の全体をより大きな敗軍の地獄図と考えていたのである」

大佛次郎「天皇の世紀」、三木清「人生論ノート」、海野十三「浮かぶ飛行島」、石川啄木「一握の砂」、川端康成「雪国」、葉山嘉樹「海に生くる人々」、横光利一「上海」、野間宏「真空地帯」、三島由紀夫「金閣寺」、森正蔵「旋風20年」、徳田球一・志賀義雄「獄中18年」、井原西鶴「好色一代男」、安陪公房「壁」、遠藤周作「沈黙」、大佛次郎「鞍馬天狗」、徳永直「太陽のない街」、山中峯太郎「亜細亜の曙」、高見順「故旧忘れ得べき」。

 大佛次郎「天皇の世紀」は黒船来航に始まる幕藩体制の動揺。明治維新をへて近代日本が生まれる。その足跡を大きく描いた歴史小説だ。多くの人があらわれ、時代を切り拓く。
 膨大な資料を駆使した歴史巨編だ。読み進むほどに歴史の現場を作者と共にする。
 原稿用紙をひろげてこんな歴史小説がかければと思ったことが何度もある。

 ドス・パソス「USA」、ヤロスラフ・ハシェク「兵士シュヴェイクの冒険」ジャック・ロンドン「野性の呼び声」、ジェローム・ジェローム「ボートの三人男」、チャールズ・ディケンズ「オリバー・ツイスト」、芹澤光治良「巴里に死す」、シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」、サン=テグジュペリ「星の王子さま」、ジョージ・エリオット「サイラス・マナー」、アーサー・コナンドイル「緋色の研究」、オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」、エミリー・ブロンテ「嵐が丘」、ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー」、 サマセット・モーム「人間の絆」、ジョージ・オーウェル「動物農場」、ヘンリク・シェンキェヴィチ「クォ・ヴァディス」、ダンテ・アリギエーリ「神曲」、アントン・チェホフ「桜の園」魯迅「阿Q正伝」、坪内逍遙「小説神髄」 
                                                                             
 ドス・パソス「USA」は忘れられない。 「北緯 42度線」、「1919年」 「ビッグ・マネー」の3部作だ。20世紀初頭からの3激動する30年間を描いている。
 初めててにしたとき、これは文学狭品なのだろうかと違和感があった。
 男女6人の物語がある。新聞記事、流行歌の1節、社会情勢などが次々に現れる。バラバラのデータに見える。これまでに読んだ作品とはまるで違う。面白くなかった。本を閉じた。でも何かが違う。それには惹かれる。再び読み直す。ニューズ・リールが使われている。現在の状況が記された新聞記事が紹介される。それは新しい手法だと気がついた。時代を表現しているのだ。作品は私の中に重く沈殿した。
 私は放送人となり、携帯用の録音機を担いで、その日のできごとを録音で伝えた。まとまった主題の番組を構成した。録音したデータを、小さな単位にしていくつもつくり構成した。コラージュだ。私の中で「USA」が顕在化した。音声や映像はもちろん、文字でもこの手法により、作品としたいと思った。
 拙著「台湾処1945年」は、ドス・パソスに学んだ。大東亜戦争の末期の台湾の状況、日本人の引き揚げまでの状況をまとめるのに、その手法をお手本にした。

 ある日、書棚に「小説神髄」を発見した。                                         
 新しい小説が,勧善懲悪を柱としていた江戸時代の戯作とは異なると述べている。    
 逍遙は江戸時代、幕末に行われた著名な文芸作品について、幅広く深い知識がある。それらを具体的な例に挙げて論評する。                                               
 江戸時代から明治時代へと大きく社会が変転していくなかて、新しい文芸はなにか、どうあるべきかを具体的に指し示した。                                              
 「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩これなり。夫れ人間は情欲の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情欲を有ぬは稀れなり。賢人不肖の弁別なく、必ず情欲を抱けるものから、賢者の小人に異なる所以は、一に道理の力を以て若しくは良心の力に頼りて情欲を抑え制め、煩悩の犬を攘ふに因るのみ」                                    
 小説総論で、美術とは如何なるものなりや、小説とは美術なりという。             
 小説の起原と歴史の起原と同一なり。                                             
 小説の主眼は専らに人情にある。小説には、模写小説と勧懲小説との差別がある。     
 文は思想の機械なり、また粧飾なり。小説を編むにはもっとも等閑にすべからざるものなり。小説の文体として、雅文体、、俗文体、雅俗折衷文体のそれぞれの得失を論じる。  
 文章上にて用ふる言語と、平俗談話に用ふる言語と、さながら氷炭の相違あり。       
 主人公とは何ぞや。小説の眼目となる人物是れなり。或ひは之を本尊と命くるも可なり。
 主人公の員数には定限なし。唯一個なるもあり,二個以上なるものあり、されど主人公の無きことはなし。       
                                                      
 後にも先にもこれほど丁寧な文学論は見当たらない。私は海水と淡水が入り交じる汽水湖を思った。               
 坪内逍遙の「小説神髄」は近代文学の礎石といえる。私はこれに接し感動した。       
 これを読むと読まないとにかかわらず、逍遙の示唆した新しい文芸が花咲いたのだ。  
                                                                               
  私自身の好みの作家をあげてみた。
 芥川龍之介、夏目漱石、井伏鱒二、大佛次郎、島崎藤村、坂口安吾、織田作之助、二葉亭四迷、太宰治、宮沢賢治、石川純、吉川英治、石川淳 、高見順 、樋口一葉、中島敦、司馬遼太郎 、有吉佐和子、伊藤整、 伊藤桂一、火野葦平、佐々木譲、城山三郎、半藤一利  藤沢周平、野坂昭如、谷川俊太郎、寺山修司 、大岡信、中原中也,白石和子、北川幸彦 ,田村隆一

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。