SSブログ

郷愁の詩人与謝蕪村 №28 [ことだま五七五]

秋の部 5

          詩人  凪藁朔太郎

うら枯や家をめぐりて醍醐道(だいごみち)

 畠(はたけ)の中にある田舎の家。外には木枯しが吹き渡り、家の周囲には、荒寥(こうりょう)とした畦道(あぜみち)が続いている。寂しい、孤独の中に震(ふる)える人生の姿である。私の故郷上州(じょうしゅう)には、こうした荒寥たる田舎が多く、とりわけこの句の情感が、身に沁(し)みて強く感じられる。

甲斐ヶ嶺(かいがね)や穂蓼(ほたで)の上を塩車(しおぐるま)

  高原の風物である。広茫(こうぼう)とした穂蓼の草原が、遠く海のように続いた向うには、甲斐(かい)の山脈が日に輝き、うねうねと連なっている。その山脈の道を通って、駿河(するが)から甲斐へ運ぶ塩車の列が、遠く穂蓼の隙間(すきま)から見えるのである。画面の視野が広く、パノラマ風であり、前に評釈した夏の句「鮒鮓(ふなずし)や彦根(ひこね)の城に雲かかる」などと同じく、蕪村特有の詩情である。旅愁に似たロマンチックの感傷を遠望させてる。

三径(さんけい)の十歩(じっぽ)に尽きて蓼(たで)の花

  十歩に足らぬ庭先の小園ながら、小径(こみち)には秋草が生え茂り、籬(まがき)に近く隅々(すみずみ)には、白い蓼の花が侘(わび)しく咲いてる。貧しい生活の中にいて、静かにじっと凝視(みつめ)ている心の影。それが即ち「侘び」なのである。この同じ「侘び」は芭蕉にもあり、その蕉門(しょうもん)の俳句にもある。しかしながら蕪村の場合は、侘びが生活の中から泌(にじ)み出し、葱(ねぎ)の煮える臭(におい)のように、人里恋しい情緒の中に浸しみ出している。なおこの「侘び」について、巻尾に詳しく説くであろう。

柳(やなぎ)散り清水(しみず)かれ石ところところ

 秋の日の力なく散らばっている、野外の侘しい風物である。蕪村はこうした郊外野望に、特殊のうら悲しい情緒を感じ、多くの好い句を作っている。風景の中に縹渺(ひょうびょう)する、彼のノスタルジアの愁思であろう。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。