武州砂川天主堂 №41 [文芸美術の森]
第十一章 明治二十四年 2
作家 鈴木茂夫
六月三日、横濱・聖心教会
ジェルマンは、一週間の巡回を終え、やつれきって横浜に戻ってきた。
診察した医師たちは、伏し目がちに首を横に振った。胃ガンがかなり進行している。居留地の病院では、もはやなすすべはないのだ。
ジェルマンは、終日、ベッドに横たわるようになった。
梅雨時の蒸し暑い風が、弱った肉体をさいをむ。
オズーフ大司教は、ジェルマンを香港にあるパリ外国宣教会極東本部の付属病院へ移送することを決めた。
聖心教会では、ジェルマンのための聖餐式(せいさんしき)が執行され、在住の神父全員が参列した。
ジェルマンは、祭衣(さいい)をまとい、ときによろけながらも、聖餐を拝領してひざまずき、深い感謝と祈りを捧げた。そして寝食をともにしてきた同僚神父に、別れの言葉をはっきりと述べた。
「現在、私には身体の苦痛があります。この苦痛によって、私は私と神との関わりを考えます。私たちキリスト者は、私たちの本性に根ざす倫理を大切にすると共に、神の子として生きる信仰と希望と愛を重んじています。この三つの徳は、私たちと神との一致、永遠の至福につながるものです。
そのことから、私は次の聖旬を思います。
斯く我ら信仰によりで義とせられたれば、我らの主イエス・キリストに頼(よ)り、神に対して平和を得たり。また彼により信仰によりで、今立つところの恩恵(めぐみ)に入ることを得、神の栄光を望みで喜ぶなり。然(しか)のみならず患難をも喜ぶ、そは患難(くあんなん)は忍耐を生じ、忍耐は練達(れんたつ)を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。希望は恥を来(きた)らせず、我らに賜(たま)ひたる聖霊によりで神の愛われらの心に注げばなり。 ロマ人への書・第五章第一節~第五節
私の身体の苦痛は、神の恩恵により希望を生み出します。その希望は、私たちを欺(あざむ)くことはないのです」
ジェルマンは激痛を押し殺し、微笑して語るのだった。
六月四日、横濱埠頭。
ジェルマンは、フランス郵船のメンデレ主に乗り込み香港へ向かった。埠頭では数人の司祭たちだけが見送った。蒜の信徒たちに別れの辛さを味わせないようにとの配慮からだ。
出港を告げる銅鑼(どら)が鳴り響く。二度三度と汽笛が吹鳴された。もやい綱を解かれた三本マストの白船が岸壁を離れる。
仲間のラングレー師が黒い帽子を手にして振っている。
十八年前の明治六年、七人の同期生神父とともにこの国へ上陸した。今はこの国に決別するのだ。桟橋には、もう二度と戻ることはない町の全景が広がって見える。
ジェルマンは、日本へ向かったマルセーユの港の光景と、重ね合わせた。あの時、母国マルセーユの港に別れを告げた。日本は異国だった。しかし、今は違う。この国は、伝道の母国だ。
こみ上げるものに何もかもうるんでしまった。それでいいと思った。ジェルマンは船室に入る。
横浜から香港までの航海は七日間だ。東シナ海は荒波だ。帆を下げ、蒸気機関(スチールエンジン)だけで進む。千五百トンの船体を右に左にと、思うさまにひねり、もてあそぶ。船首が波頭を鋭く裂き割って深く下がると、船尾は空中にさらされ、負荷を失った推進器(スクリュー)が空転する。牽瞬、激しい振動が船体を揺るがす。
ジェルマンは、ひたすらに耐えていた。吐き出すものはすべて吐き出し、腹の中には胃液だけだ。のど元に上がってきた胃液を、辛うじて飲み下す。意識がもうろうとしてくる。やがて、ジェルマンは失神するように深い眠りに入る。
台湾海峡から、南シナ海に入ると天候も回復し、すべての帆を上げて走る。
六月十一日、香港・パリ外国宣教会医療施設べタニアの園。
横濱を出て七日目にようやく香港に入港した。
港で待ち受けていた担架に乗せられ、パリ外国宣教会極東本部の医療施設べタニアの園へと運ばれた。
香港島の南東側の山の中腹、ちょうど香港港の裏側にあたるヴィクトリアとアバディン街近くのポタフロムの閑静な住宅街に病棟がある。病室からは海を一望することができた。椿樹とハイビスカスが生い茂って、爽やかな風を運んでくる。晴れた空の下、水平線のかなたまで見通せた。午後の驟雨(しゅうう)が、木々の緑を洗って鮮やかとなる。
『武州砂川天主堂』 同時代社
『武州砂川天主堂』 同時代社
2024-01-30 17:27
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