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郷愁の詩人与謝蕪村 №20 [ことだま五七五]

夏の部 5

        詩人  萩原朔太郎

寂寞(じゃくまく)と昼間を鮓(すし)のなれ加減

  鮓は、それの醋(す)が醗酵(はっこう)するまで、静かに冷却して、暗所に慣ならさねばならないのである。寂寞たる夏の白昼(まひる)。万象の死んでる沈黙(しじま)の中で、暗い台所の一隅に、こうした鮓がならされているのである。その鮓は、時間の沈滞する底の方で、静かに、冷たく、永遠の瞑想(めいそう)に耽(ふけ)っているのである。この句の詩境には、宇宙の恒久と不変に関して、或る感覚的な瞳(め)を持つところの、一のメタフィジカルな凝視がある。それは鮓の素(もと)であるところの、醋の嗅覚や味覚にも関聯(かんれん)しているし、またその醋が、暗所において醗酵する時の、静かな化学的状態とも関聯している。とにかく、蕪村の如き昔の詩人が、季節季節の事物に対して、こうした鋭敏な感覚を持っていたことは、今日のイマジズムの詩人以上で、全く驚嘆する外(ほか)はない。

鮒鮓(ふなずし)や彦根(ひこね)の城に雲かかる

 夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴィジョンを浮(う)かべたのである。鮒鮓を食ったのではなく、鮒鮓の聯想(れんそう)から、心の隅の侘(わび)しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」という言葉、その特殊なイメージが、夏の日の雲と対照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀(すぐ)れた技巧を見るべきである。島崎藤村(しまざきとうそん)氏の名詩「千曲川(ちくまがわ)旅情の歌」と、どこか共通した詩情であって、もっと感覚的の要素を多分に持っている。

麦秋(むぎあき)や何におどろく屋根の鶏(とり)

  農家の屋根の上に飛びあがって、けたたましく啼(な)いてる鶏は、何に驚いたのであろう。その屋根の上から、刈入時(かりいれどき)の田舎の自然が、眺望を越えて遠くひろがっているのである。空には秋のような日が照り渡って、地上には麦が実(みの)り、大鎌や小鎌を持った農夫たちが、至るところの畑の中で、戦争のように忙(いそが)しく働いている。そして畔道(あぜみち)には、麦を積んだ車が通り、後から後からと、列を作って行くのである。――こうした刈入時の田舎の自然と、収穫に忙しい労働の人生とが、屋根の上に飛びあがった一羽の鶏の主観の影に、茫洋(ぼうよう)として意味深く展開されているのである。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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