夕焼け小焼け №26 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
台湾ボケ
鈴木茂夫
昭和21年5月のある日の朝、初めて登校する。昭和橋からバスに乗る。バスは東海道を走る。庄内川のたもとの下ノ一色で下車。市電の築地線に乗り換える。3駅目の中学前で降りる。目の前が学校だ。木造の校舎が3列に並んで、ヒイラギが学校を囲んでいる。周囲は畑。民家があちこちに見える。
事務室に顔をだすと、4年1組の教室の空いている机に案内された。 好奇心にみちた視線が集まる。
第1時限のベルで教員が入ってきた。こじんまりした面長の人だ。隣の席の生徒が、
「柴田先生だ。フォックスともいう」
柴田先生は出席簿を開いて眺めた後、
「転校生の鈴木茂夫というのはあんたかね」
「はい」
「どこから来たのかね」
「台北です」
「台北いうたら台湾やな」
「そうです」
「わしは台湾には、台湾ボケという熱病があると聞いたことがあるわ」
教室の中に爆笑が渦巻いた。
「そんなのは聞いたことがありません」
私の返事なぞは、誰も聞いていなかった。私は台湾ボケと呼ばれるのを確信した。
柴田先生は教科書を開き、
「きょうはこないだの続きでいこうか。ハブ・プラス・ピーピーやで。じゃあ、ライトならどうや。増井君いうてみ」
隣の席の増井君が立ち上がった。
「ハブ・リトンです」
「そのとおりや。パッシブ・ボイスならどうや」
「ハブ・ビーン・リトンです」
「それでいい。ライトのコンジュゲーションはどうや」
「ライト、ロート、リトンです」
「そしたら鈴木君に聞いてみよう。テイクはどうや」
私は何が語られているのか、まったく分からない。頭が熱くなっていた。
「分かりません」
「なにが分からんのかね」
「みんな分かりません」
柴田先生は天井を見上げてから、
「英文法を学んだことはあるのかい」
「2年生の時はほとんど勤労動員でしたから授業はありませんでした」
「ここの生徒も、三菱の飛行機工場で働いていたんや。だから終戦になって勉強した。君も基礎から取り組んで欲しい」
授業が終わると、隣の生徒に尋ねた。 増井君は丸顔の温厚な表情だ。
「ハブ・プラス・ピーピーは、こう書くんだよ」
「have plus past paticiple これじせいなんだ」
「そのじせいとはなんのこと」
「じせいは時制なんだ。過去、現在、未来のなかの過去を表してる」
「これまで聞いたことがないんだ。分かるように勉強するよ。良い参考書知ってる」
「オノケーにしたら」
「はあ」
「小野圭次郎の本だよ。本屋には置いてあるから」
私は翌日、増井君につきあってもらい、広小路の書店で「オノケー」を買い求めた。
これを覚えなければ、授業にはついていないのだ。
2023-12-14 08:38
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