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夕焼け小焼け №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

上村家の温情・惟信中学池原校長

           鈴木茂夫

 母は大倉を本拠として父の帰還を待つとした。疲れ果てている祖父母の面倒も見なければならない父はボルネオに出発する前に親友の上村良一氏を訪ね、万一の場合はよろしく頼めといっていた。上村氏以外に頼める人はいない。そして私・茂夫をしかるべき学校に入れなければならない。
 母と二人で名古屋に出かけた。名古屋駅から築地行きの市電に乗り六番町で降りた。目の前の広い路は東海道だ。20分ほど歩くと中川運河をまたぐ昭和橋のたもとについた。運河に沿って右折する。福川町だ。しばらく行くと右手にしっかりした木造二階家があった。大きな商家のつくりだ。
 道路横の玄関に上村良一の表札を見る。母が扉をあけて、
 「ごめんください」
 面長の背の高い着物姿の婦人が現れた。豊子さんだった。
 「鈴木広蔭の妻の幸枝でございます」
 「おやまあ、主人を呼んでまいります」
 と座敷に案内された。しばらく待っていると、
 「ご無沙汰しています。お帰りなさい」
 仕事着姿の長身の上村良一氏だ。神戸高商で共にボートを漕いでいた写真があった。
 母がひとわたり状況を話し終えると、
 「わが家も贅沢な暮らしをしてはいませんが、茂夫君はお引き受けしましょう」
 豊子夫人もうなずいた。
 「あなたはどうされますか」 
 母が答えた。
 「私は夫の実家の小原村で暮らします」
 「一人暮らしが苦しくなったら言ってください。豊子さん、後はよろしくね」
 良一氏はそれだけ言うと席を立った。母は深々とお辞儀をした。
 二つ返事で引き受けていただいたのだ。なんということか。私はこの上村家で暮らすことになったのだ。
 上村家は名古屋で有数のガラス販売店だ。街の中心部矢場町に店と住宅があったのだが、空襲で焼かれた。そこで福川町の邸と中川運河に面した2軒の倉庫を買い求めたという。
 広い道路に面して事務所がある。その奥に上村夫妻の寝室をかねて4室。2階にも4室。
 上村家には6人の男の子がいた。長男の賢之介さんは安城農林の一年生、次男の耕一郎さんは昭和橋小学校の五年生、三男の順造さんは同じく3年生、、四男の喜章さんも同じく一年生、5男の祥五さんは来年入学、6男のツネさんは2歳。
 食事は6畳の茶の間だ。女中のツネさんが、ご飯のお代わり、注文を一手に引き受ける。
この日の夕食には母もいた。

 あくる日、愛知一中を訪問。空襲で校舎を焼かれ、転校生を受け入れる余地はないといわれた。つぎは江戸時代名古屋藩の藩校だった明倫中学だった。英語だけの試験問題が出された。答案をみた教員は、学力がないから、一年生からだと受け入れるといわれた。愛知県熱田中学でも英語の試験をされた。ここでは二年生ならいいといわれたが。
 名古屋の有名中学には、すべて断られたのだ。豊子夫人が県立の惟信中学もあると示唆されたので、翌日に訪ねることにした。
  昭和橋のバス停から乗車、東海道を西へ向かい下ノ一色で下車。市電に乗り換え中学前で降りる。惟信中学はヒイラギの生け垣に囲まれた平屋の校舎だ。
 母が受付で用件を告げると、校長室に招かれた。机の向こうに座っていたのが校長池原茂二先生だった。澄んだ瞳の人だ。
 「君は3年生だというが、授業はどのくらい受けているの」
 「2年生の1学期までです」
 「その後は何をしていたの」
 「街の防空壕を作ったり、高射砲の陣地や飛行場の整備をしたりして、陸軍二等兵になりました。台湾が中華民国の領土と言われてからは学校に行きませんでした」
 「本校の生徒も三菱の飛行機工場で働いていたよ。君は将来どうなりたいの」
 「大学を卒業して世の中に出たいです」
   「どうして」
  「わが家には土地もお金もありませんから、大学での知識を生かして働きたいです」
  「わかった。無試験で君を4年生に編入しよう」
 夢のような声だった。
  「お母さん、あなたは教員免許があるなら、学校を紹介してあげられるよ」
  「夫の帰国を待ち、この子の成り立ちを見守りたいと思います」
  「母子二人で引き揚げ、生活していくのは容易ではないが頑張ってね」
 池原先生の英断で、私は落第することなく一筋に学べた。

 私はこのあと、自由律俳句を学んでいるという級友から池原先生の話を聞いた。
東京高等師範学校を卒業して、長年国語を担当されていた。荻原井泉水の門下にあり、魚眠洞の俳号で活躍されている。
 代表作として
    笑つてわらつて涙が出るほど笑つたあとの、みかん
  月の明るさは音のない海が動いている
  いちにちうちにいて冬の日が部屋の中移ってゆく
わすれられない句だ。



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