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多摩のむかし道と伝説の旅 №104 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         多摩のむかし道と伝説の旅(№28)
      -江戸の庶民の参詣道、都心の大山道を行く-1
               原田環爾

江戸時代、庶民の娯楽として人気を博したのは講中を組んで信仰を兼ねて旅することで した。全国的には東海道中膝栗毛のようなお伊勢詣りであり、関東・甲信では古典落語にあるような大山詣り、多摩では御嶽菅笠に見られるような御嶽詣りなどがありました。特に大山阿夫利神社への大山詣りは江戸の庶民にとって比較的気軽に行ける長旅として大変人気があったと言います。

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大山は奈良時代の天平勝宝7年(755)東大寺別当良辨僧正によって開山された。その後、中腹に大山寺、山頂に石尊大権現(現阿夫利神社)が祀られた。阿夫利神社は延喜式神明帳にも載る古社で、相模の山岳修行の中心的道場になっていたとされる。鎌倉時代には北条政子が安産祈願として大山寺に神馬を献上し、室町時代には聖護院門跡道興准后も来訪している。江戸時代に入ると、徳川家康は大山八大坊を中心組織とし、大山寺、阿夫利神社を別当として管理、修験者は山麓へ移住させるなど大山全山を統括運営する大改革を断行した。この改革を契機に御師は門前町を築き大山信仰を各地に広めた。こうして江戸の庶民は大山講を組織して大山詣りをするようになり、江戸中期から後期にかけて大いに流行り、宝暦年間には年間20万人もの参詣者があったと伝える。
 大山詣りに使われた道筋は、大小様々な大山道として、多摩や関東一円各所に幾筋も残 されている。中でも最も代表的な大山道は、江戸の町民が旅した大山街道と言える。この道筋は大部分が矢倉沢往還の道筋と重なる。矢倉沢往還とは足柄峠近くの矢倉沢に関所があったことに由来する。大山はその関所の手前の伊勢原で往還路から分岐するのである。従って大山道の道順は都心の赤坂御門を起点として、三軒茶屋を通り、二子玉川へ至り、そこで多摩川を渡り、溝口、長津田、鶴間、国分、海老名へと進み、厚木で相模川を越え、愛甲、そして伊勢原に至ると、ここで矢倉沢往還から離れて大山へ向かうのである。

今回は大山道の内、起点の赤坂御門から二子玉川迄の都心の港区、渋谷区、世田谷区を抜ける道筋を辿ることにする。

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28-3.jpg地下鉄赤坂見附駅から地上に上がると、そこは外堀通りに青山通りが合流する丁字路帯になっている。外堀通りを渡って弁慶堀の畔に出る。堀の右端には弁慶橋が架かっている。弁慶堀や弁慶橋の名は工事を請け負った弁慶小右衛門の名に由来し、明治22年に開橋されたものである。武蔵坊弁慶とは全く無関係である。
堀の対岸は紀尾井町で江戸時代は紀州藩の藩邸があった所だ。今は左手にホテルニューオータニ、右手にはかつて赤坂のシンボルと言われた旧赤坂プリンスホテルがあった。弁慶橋から堀に沿って100mも進めば大山道の起点である赤坂御門跡がある。赤坂御門とは江戸城外堀に作られた門のうちの一つで、二つの門を直28-4.jpg角に配置した枡形門の形式をとっている。門には常時3人の見張り番を置いていたので赤坂見附と呼ばれ 地名にもなった。他にも地名になった見附に四谷見附がある。赤坂御門は明治になって撤去されたが、平成3年の地下鉄南北線工事に伴う発掘調査で地中から石垣が発掘された。ちなみに江戸城三十六見附と言われ、浅草見附、筋違見附、小石川見附、牛込見附、市谷見附、四谷見附、喰違見附、赤坂見附、虎ノ門、幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常盤橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門、桜田門、日比谷門、馬場先門、和田倉門、大手門、平川門、北桔橋門、西の丸大手門、二重橋、坂下門、桔梗門、下乗門、中之御門、中雀門があった。現在御門跡には地下鉄工事で発掘された石垣が組まれて復元され、由緒書が立ち、明治初期に撮影された赤坂御門の高麗門の写真などが掲載されている。
28-6.jpg これより最初の大山道である青山通りに入る。緩やかな上り坂を車両が激しく行き交っている。程なく沿道右に豊川稲荷が見える。正式には東京・赤坂豊川稲荷別院と称す。本社は愛知県豊川市の三州本山豊川稲荷である。通常見られる神社形式ではなく曹洞宗の寺である。江戸の町奉行大岡越前守忠相の屋敷稲荷で盗難除けに霊験あらたかと言われる。これと筋向かい沿道左に斜めに入るやや狭い上り道が分岐する。これが大山道で坂は牛鳴坂と称28-5.jpgす。路傍の標柱の説明書には、「牛鳴坂は赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた、さいかち坂ともいう」と記載されている。坂の途中左に重厚な武家屋敷門がある。山脇学園が移築整備したものという。もとは老中本多美濃守忠民(三河国岡崎藩)の屋敷門で千代田区丸の内の中央郵便局辺りにあった。何時の頃か山脇学園の所有となり千葉県九十九里町の同学園の松籟荘内にあったものを、平成27年現敷地内に移築された。同学校では「志の門」と名付け、始業式などの行事の時に開門し生徒たちに登校させるという。坂道はゆったり右方向へカーブしながら上りきり、左に山脇学園の校舎をやり過ごすと、再び喧噪な青山通りに復帰する。
(この項つづく)


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