SSブログ

浅草風土記 №14 [文芸美術の森]

吉原附近 7

      作家・俳人  久保田万太郎

      

 ……去年の碁である。「一葉とその大音寺前時代」を書く必要のため、馬場(孤蝶)先生におわがいして、龍泉寺町の、むかし一葉が一文菓子を売って住んだあとをわたしは連れてあるいていただいた。
 馬場先生の、真筆版『たけくらべ』の跋にお書きになったところによれば、そこは、下谷龍泉寺町の三百五十八番地である。――すなわち龍泉寺町の交番の角でわたしたちは自動車を下り、そのまま馬場先生のあとについて電車通りを越し、角に大きな瀬戸物屋をもったやや狭い往来へ入った。そうして、左側の、とある酒屋の角の番地早わかりの掲示板のまえに立って「三百五十八番地」をさがした。が、「三百五十七番地」はあったが「三百五十八番地」はなかった。可笑しいと思ったがとにかく「……五十七番地」まで行ってみることにした。――すなわちその掲示板の命ずるところによってその角を左折した。
 が、いくらさがしても「……五十八番地」はみつからなかった。訊いても分らなかった。
「……五十七番地」はその店たった一けんの小さな自転車屋へ入って訊いてもそんな番地は聞いたこともないという膠(にべ)もない返事だった。
 「いいえ、こんな横町じゃなかった」
 そのとき先生はいわれた。「とにかく真っ直の通りだった」
 何分古い事なのに先生も大事をとられたのである。大事をとられてまず番地にたよられたのである。が、よく読めば、げんに、その真筆版『たけくらべ』の跋のあとのほうにでも「吉原遊廓の北面の西端は揚足町の非常門である。その非常門のところから、西へ、即ち上野の方へ向けて大凡一町位来てからの右側の家であった。」と、先生、はッきりそう書いていられる。――そこでまだわたしたちはもとの往来へ出、改め羅その往来の突きあたりの揚屋町裏の非常門のまえに立った。そうしてそこを起点として、西へ、先生の記憶をたどりつつ幾たびかその往来を行ったり釆たりした。――そこにすでに三十何年という月日の距りがあるばかりでなく、そのあたり明治四十四年の吉原大火のおりにも焼け、大正十二年の大地震のときにも大震災をまぬかれなかった場所だけに、そうした番地の存在のことによるともうすでにむかしの話になったかは知らないが、それにしても樋口家の、位置としてこの往来の左っ側(揚屋町の非常門のほうへ向いて)ということだけはたしかにいえる、はッきりそう先生はいわれた。
 この頃よくある手の、例の土地の整理から来る番地の組替え、そうした都合でことによると、大きにいま行われているものはこのごろでの新しい番地かも知れないとも疑ってみたり、揚屋町の非常門というのは京町裏の非常門の間違いではないかという説を立ててもみたり、そうでもない、もしやと、もう一度その界隈に住む人と一しょに以前のその「……五十七番地」の自転車屋のまえに引っ返してもみたりしたあと、あぐねつくして、ものは試しと連れの一人が交番にぶつかってみた。――と、交番の返事はきわめて簡単だった。「三百五十八番地」なら表通りの肴屋の並びだと有無なくそういうのだった。が、その肴屋のもつ番地は「……五十八番地」でなく「三百六十八番地」だった。しかもそこなら、先刻から、その十番違いをうらめしくなかめながらわたしたち幾たびとなく無駄にそのまえを行ったり来たりしていたのである。――全く私たちは失望した……/

 と、急に、わたしたちのもう一人の連れのすがたがそのときみえなくなった。どこへ行ったかと思っていると、すぐそばの煎餅屋の店から出て来た。その人の機転がそのあたりでの最も古い居住者をその人に訊き出させたのである。それによると、そのあたりで、二けんある酒屋のどっちかが最も古いとされているということだった。そこで手分けして、その一人は最初にわたしたちが掲示板をみて立った角の酒屋をあたり、わたしともう一人の連れとはもう一けんのほうの伊勢屋という店をあたってみることにした。
 が、何としても雲をつかむようなたずねごとである。何といって訊いていいものかと思案した。結句、わたしは、以前そうした古い店があったと聞いたがと前置して、石橋の田村やの所在をまず訊いてみた。主婦とみえる五十恰好の人がそれならあの時計屋のあるところがそうだと反対の側の、やや揚屋町のほうに近い見当をすぐさし示してくれた。つぎに上清(じょうせい)の所在を訊いた。同じく反対の側の、その時計屋よりやや手まえの葛籠屋がそのあとだと教えてくれた。厚く礼をいって、いさんでわたしたちは馬場先生のそばへ引っ返した。(この項つづく)

{浅草風土記』 中公文庫



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。