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武州砂川天主堂 №36 [文芸美術の森]

第十章 明治二十・二十二年 2

        作家  鈴木茂夫

一月二十二日、静岡県駿東郡役所(すんとうぐんやくしょ)。
 竹内寿貞は、四年前の明治十七年から静岡県駿東郡の郡長を務めている。西南戦争での戦友が推薦してくれたのだ。明治維新の際、徳川家はそれまでの将軍職を離れ、駿河・遠江を領国として与えられた。それに伴い、多くの家臣も江戸から移住した。その中の旧幕府陸隼局にいた男が、警視庁抜刀隊で、寿貞と共に戦った。幕府と伊達藩は、新政府から朝敵とされたことから、仙台出身の寿貞との間には、自ずから親近感が生まれる。戦後、引き続き警視庁にいたその戦友が寿貞に声を掛けてくれ、この職につくことができたのだ。
 武士にとって、生活するとは、主君に仕えることだった。それが、維新で崩壊し、将来が見通せない日々が続いていた。
 寿貞には、思いがけない成り行きだった。地方行政機構の中の監督者として、新政府に仕えることになったのだ。もう命をかけて刀を振るうこともない。何よりも、大きな国家組織の中の一員であることに心が安まった。俸給は五十円、ゆとりのある生活が保障されている。
 駿東郡は伊豆半島の西側の付け根に位置する。明治十二年以降、静岡県に郡の制度がしかれた。その十三郡の一つだ。富士山を西北に仰ぐ。その南麓には愛鷹山(あしたかやま)が延びる。東方には、足柄山・箱根山が連なる。その渓谷から北東に流れるの鮎沢川は酒匂川(さかわがわ)に合流する。南に流れる黄瀬川は、狩野川に流れ入る。南部の裾野には、田園が広がり、豊かな実りをもたらす。北部は、水利に恵まれていることで、工業も盛んだ。四町二十三村の人口約十三万人。温暖な気温に恵まれている。
 駿東郡役所は、沼津町に置かれている。部下には十人の書記、教育全般を管理する郡視学一人、事務員七人がいた。
 郡長室に書記の一人が、
 「郡長、カトリックのフランス人の神父が、郡長にお願いしたいと訪ねてきておりますが」
 「どういう用件か聞いたのかね」
 「病院を建設したいと言っていますが、普通の病院ではありません」
 「病院に普通と普通でないのがあるとは、どういうことかな」
 「何と申しましょうか、普通の病院とは、伝染病以外の病気を取り扱うもので、私どもがふだんかかるところです。伝染病は隔離病院がありますから、これもわかります。ところが、計画している病院はハンセン病患者を収容するというのです。私は世の中に、こんな病院があるとは、知りませんから、普通でない病院と申しました次第であります」
 「わしにもはじめてのことだ。郡内のどこに建てようというのかね」
 「御殿場一帯の適当な場所に土地を求めて、そこに建てたいとのことです」
 「あんたは、この一件につき、よく知っているようだが、状況を話してくれんかね」
 「一年ほど前から、天主教の一人の神父が御殿場に姿を見せるようになりました。巧みに日本語を話し、人を集めて説教するのです。すでに土地の何人かは、信心しはじめているとのことです。この神父が女のハンセン病患者を見かけ、手当をしようと、空き家となっていた一軒の農家を借り受けたのです。ところが患者が六人に増えたので、この際、一思いに病院を建てようと計画したのです」
 「あんたは、詳しい経緯を知っているが、誰かから聞いたのかね」
 「いやそうではありません。この神父さんに訊ねると、洗いざらい話をしてくれるんです。ですから、土地の者はよく知っています」
 「病院を建てるには、それなりの金が必要になるが‥…・」
 「フランスにある神父さんの実家というか、本山というか、そちらにお願いして金を工面すると言っています。足りなければ、寄付を求めるとも……」
 「ところで本件の神父は、なんという名前かな」
 「テスト‥‥、テスト‥‥」
 寿貞は、吉記宮の顔を凝視した。
 「もしかして、当てずっぽうだがテストヴイドではないかい」
 「いや、そうです。なんだ、郡長はご存じだったんじゃないですか」
 「テスト……という名前に心覚えがあったものだから、思わず口にしたまでのことさ。しかし、やはり、そうだったのか」
 寿貞は、吐息をはいた。
 「郡長、本人がテストヴイドなら、この神父をご存じなのですね」
 忘れられない名前だ。
 「そうであるなら、この人物は、わしの若い頃の知り合いの一人だ」
 「人の世の縁(えにし)とは、不思議なものですな」
 「本人をこちらへ通して」
 姿を現したのは、紛(まぎ)れもないジェルマンだった。昔に変わらず碧い澄んだ瞳が輝いている。寿貞は、ジェルマンと出会った砂川村のことを想起した。
 「おや、竹内さんじゃないですか」
 「ジェルマン、久しぶりだね」
 二人は、しっかりと手を振りあった。
 「昔話は後にしよう。あなたは、何をしようとしているのですか」
 「私は、ハンセン病患者の病院を創りたいのです。そのためには土地が要ります。また、この病院を創ろうとすると反対する人もいます。役所の許可が要ります。患者のための医者、看護人が要ります。病院を建築しなければなりません。÷して、これを実現するための資金が要ります」
 「ジェルマン、役所が持っている土地を手当てするとなると、病院が特別の病院だから付近の町村の同意が必要となるだろう。それには、厄介な手間がかかる。だから、個人の持っている土地を購入することにしたほうがよいと思う。病院を創る許可については、協力できると思う。ハンセン病患者の病院は、まだどこにもないが、患者がいる限り、どこかには創らなければならない。そのお手伝いはしよう。また、静岡県の関口隆吉(せきぐちりゅうきち)知事宛に、私から推薦状というか、紹介状を書くから、それをもって訪ねるといいよ」
 「竹内さん、ありがとうございます」
 「ジェルマン、あんたは昼飯はすませたの」
 「まだです」
 「それじゃ、昼飯を取り寄せるから二緒に食べよう」
 「昔と同じですね。喜んでご馳走になります」
 「ジェルマン、あなたはいつでも空腹にしているんだ」

『武州砂川天主堂』 同時代社


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