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夕焼け小焼け №23 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 父はボルネオへ

           鈴木茂夫

 昭和19年(1944年)5月のある夜。父は夕食の食卓で語り始めた。
 「海軍からの強い要請があって、ボルネオ島のタラカンで算出した石油を日本内地に輸送する事務の運営監督に、経験のある人材を出して欲しいと言ってきている」
 母が怪訝な顔で聞き返した。
 「ボルネオ島ってなんですか」
 「ボルネオ島は東南アジアの島の一つで、日本の東南国土の約1.9倍、南シナ海、スールー海、セレベス海に囲まれている。島の南部から東部がオランダ領、北西部がイギリス領だった。昭和17年(1942年)、日本陸軍はイギリス領を日本海軍はオランダ領を攻撃して占領した。ボルネオ本島に付属しているタラカン島はタラカン島は島の北東岸沖のセレベス海西部に位置している。沼地の多い島で、面積は303㎢、石油を産出する。海軍の守備は第22特別根拠地隊。海軍はここに施設部を設け、石油を日本へ送ることを意図した。陸軍の運営している油田には1万人以上の石油会社の社員が働いているそうだ」
 「それがあなたと、関係しているんですか」
 「海軍は大阪商船本社とも話し合い、俺を適任者とみなしているんだ」
 「海軍軍人になるんですか」
 「いやそうではない。軍人や軍属でもなく、左官待遇の嘱託として迎えると言うんだ」
 「あなたが行くっていうのなら、そうすればいいわ」
 「これは本社の意向もあるし、断り切れないと思う」
 それから数日して父は、
 「海軍省に行ってくるよ。いろいろ打ち合わせをしたいというから」
 母は平静を装っているが、落ちついてはいない。
 台北から東京へ飛ぶ代日本航空の座席を海軍が押さえたと父は出かけた。
 一週間ほどして、父は帰宅した。
 「親父にもほかの係累にも会ってきた。それに神戸高商以来の親友上村良一君とも話してきた。俺に万一のことがあったきは、家族のことを頼んできた。良一君は信義に厚い男だから」
 父は身の回りの衣類のほかは、何もいらないと、ボストンバッグを一つだけにした。
 「明るい壮行会をしよう」
 父は大稻埕から大稻埕はる淡水河のほとりにある貿易街としては栄えていた。街の中心には大稲埕慈聖宮は天上聖母(媽祖)を祀る媽祖廟に参詣の人が絶えない。
 有名料理店も人気を呼んでいた。東薈芳、春風樓、蓬萊閣 、江山楼(いずれも消滅)は4大酒家といわれる。そのなかでも江山楼は別格の老舗だった。賑やかな通りの中に店はある。恰幅の良い支配人が愛想良く個室へ案内してくれた。店内は豪華な家具調度を整え、個室を多くしつらえていた。
 その席には東京商科大学の級友で大阪商船の同僚でもある瘳能さんもお見えになった。
 「無理するなよ。死ぬようなことはしちゃダメだよ」
 瘳さんは、優しくはげましてくれた。
 円形の食卓には、美味としか言いようのない料理がつぎつぎと提供された。
 私も母も陶然として味わった。
 ここで食べた料理の名前を思い出せない。ボンヤリした記憶をたどっみる。
 白雪木耳(きくらげやえび、貝柱、イカなど)、金錢火雞(七面鳥の肉団子)、蜈蚣蟳(海藻)、 海參竹菇(なまこ、えびなど)、鳳眼鮑魚(アワビなど)、それ以後こんな料理に出会ったことはない。
  ご機嫌な父は私に語った。
 「君の将来だけれど、成績が良くて体力があれば、海軍兵学校に入り、海軍将校になる。船が好きなら、東京か神戸の高等商船学校で学び、船長になるのもいい。東京か大阪の外語学校で外国語を習得して外交官になるのも悪くない。たまにはそんな未来を考えるのもいいよ」 
 父はそれだけ言うと、別の話題に変えた。私には重い話だった。父の希望は分かった。それなりに将来のことを考えてみようと思った。
 
 この宴のあと、父は気軽い表情で家を出た。
 台北の松山飛行場から、臨時に飛ぶ海軍の輸送機に乗るのだという。東京発の飛行機で現地に向かうとのこと。

 一月ほどで、父から封書が届いた。
 飛行機はマニラ、ジャカルタで着陸、別の飛行機でタラカンに着いたとか。石油の積み出しに、忙しくしている。元気だから心配しなくていい。
 母と二人で何度となく読み返した。


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