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台湾・高雄の緑陰で №36 [雑木林の四季]

                    台湾より九州への舟旅

            コラムニスト  何聡明

今年の5月11日、私は8月に九州の長崎と鹿児島に寄航する大型郵船が基隆港より出港することを知り、直ぐ知り合いの旅行社に家内と娘の昭慰3人の乗船手続きを終えました。私は以前福岡、長崎を含む北九州と、中部の熊本県、大分県を商用や観光で訪れましたが、南九州の鹿児島は未踏の地であるので、この郵船のコースを選らんだのです。家内と娘は九州観光は始めてです。

7月に入ると突如私は右足の神経痛で歩行困難となり、病院で検査と治療を続けましたたが、神経痛はなかなかよくならず、一時は旅行の取り止めを考えました。幸い8月に入ると医師の新しい投薬で歩行困難が柔らぎ、毎日その薬を服用すれば右足の神経痛は抑えられると医者の診断があり、私も数日の服薬で自信がついたので予定どうり出掛けることに決めました。
8月18日早朝、私達3人と同行者達は旅行社が準備した大型バスに乗り高雄より基隆港へ赴き、既定の郵船に搭乗して九州への船旅が始まりました。私達が搭乗したイタリア籍郵船の名前は「Costa Serena」で,114、500トン、船長290メートル、横幅35.5メートル、客室の高さは13階、乗客3千7百人,乗務員1千1百人を搭載する大型郵船です。

船は8月18日午後5時基隆港を出航後3日目の朝8時ごろ長崎港に停泊しました。長崎市は太平洋戦争戦末期の1945年8月9日に3日前の広島市に継いでアメリカの原子爆弾で多くの犠牲者と甚大な破壊を受けた都市です。私は長崎には35年ほど前に商用で訪れたことがあり、その時と比べると今の長崎市は高層建物が増え、市街もよく整理されて活気ずいています。

私達が先ず訪れたのは天と平和を両腕で指した大きな平和記念像のある平和公園、続いて平和の泉、長崎の鐘、原爆落下中心地を安行しました。長崎原爆資料館へは長い歩行を要するので遠慮しました。その後、グラバー公園の入り口内の休憩所で公園の奥へ行く娘の帰りを待ちました。娘は園内にある日本開国直後に長崎にやってきたスコットランド出身の貿易商、グラバー氏の住宅や明治時代の洋館と「蝶々夫人」のオペラ作曲家・プッチーニの像が佇むところまで足を伸ばしたことを知り、私はつぐつぐ歳の差を感じました。午後は繁華街の歩行道路の真ん中でアナゴ弁当を食べ、短いショッピングを済ましたあと、郵船に戻り、船は予定どうり午後8時に長崎港をあとにしました。

翌朝8時船は私が始めて訪れる鹿児島に到着、先ず目に入ったのは雄壮な活火山桜島です。船は鹿児島湾に入り埠頭に横づけするまで減速を続けていたようで鹿児島港に着くまでかなり時間がかかりました。鹿児島は明治維新まで島津藩が約七百年統治したとのことです。私達は1658年に藩主島津光久氏が建造した広壮な別荘と仙厳園を訪れました。仙厳園はNHKが大河ドラマ「篤姫」ののロケーションの一部分に使ったとのです。篤姫は徳川幕府13代将軍徳川家定の正室でした。次に訪れた吉野公園からは桜島が美しく見えました。その後南九州随一の繁華街天文舘歩行区を訪れ、昼食は鹿児島の名物黒豚ラーメンを頂いたあと、歩行区でいろいろ鹿児島の名物を台湾へのお土産として買い求めました。間もなく時間が切れるので急いで船に戻りましたが、船は予定より1時間近く遅れて鹿児島港を出航しました。港には現地の音楽隊が音楽を奏でて見送りをしてくれました。

静かな海上の1昼2夜が過ぎて8月23日の朝、舟は基隆港に到着、長い時間をけて入国と通関を終えたあと、私達は新幹線で高雄へ戻って来ました。旅行中台風に出会わなかったのは幸でした。長崎市と鹿児島市観光で帰国後今でも残念に思っているのは、市内観光とショッピング時間が甚だ短かったことです。これは郵船会社と旅行社に改善を要求しなければならないと思います。若し要求が取り入れられたら船旅のコストは高くなるでしょう。

通常陸上の旅は色々な交通機関に乗り、行く先々でホテルを換えますが、船旅はホテルを換える必要なしですから、日々荷物の持ち出しと収納に時間を掛けずにすみます。旅行中私は右足の神経性疼痛の投薬を続けていましたが、時々歩行がままならないときは難儀しました。総じて家族ずれの楽しい船旅でした。船会社は99歳までの老人の乗船は拒絶しないとのことですから、超高齢の方々には良きニュースだと思います。私も手足がまだ動ける間に機会があればまた船旅をしたいと思っていますが???


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