夕焼け小焼け №16 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
おいきの紙とよく泣く若様
鈴木茂夫
昭和11年(1936)9月。
母は天理教への信仰を深めたいと、丹波市町(昭和29年天理市となる)の天理教修養科へ入ることにした。6か月の課程で天理教の教義の基本を学ぶ。
母は私を連れていくことにした。基隆を出て門司、大阪を経由して丹波市町(ここは昭和29年に天理市となる)へ。
天理教教会本部は、神殿,、教祖殿、祖霊殿があり、それらを回廊で結んでいる。
本部をを中心に、数十の大教会の信者詰め所がある。
その中の一つ、越ノ国大教会の詰所に入った。修養科生と記した法被を着る。ここが宿舎だ。20人の修養科生と暮らす。
日課は本部での朝づとめ参拝に始まり、掃除などのひのきしんを行い、朝食、修養科へ。夕方まで授業。夕食を終えると本部夕づとめ参拝、おてふり・鳴物練習、講話などの修練活動。その後、入浴を済ませ、消灯となる。
私はあちこちを走り回っていて転倒し、膝に擦り傷ができた。包帯もせずにいたら化膿した。痛いのと痒いのが入り混じる。母がそれを見て、物入れから紙を取り出した。白い紙だ。それを患部より一まわり大きくちぎった。
「これはおいきの紙よ。神さまにお供えしてあるって。教祖殿でいただいたの」
傷口においきの紙が貼られた。あくる日、傷口をみた。おいきの紙が黄色くなっいる。膿がでて紙に染みているのだ。母がおいきの紙の端をつまんで、一気にはがした。声もだせないほど痛かった。患部は赤くただれて、膿が残っている。私は母に頼んだ。
「ねえ、ドイツの薬のデシチン塗ってよ」
母は一瞬考えたようだが、カバンから薬を取り出し、ガーゼに塗りつけ傷口にあてた。
次の日、また患部を開けた。膿は出ていない。ガーゼをはがすのも痛くなかった。
二三日すると、傷口は乾いてきていた。またデシチンを塗布した。おいきの紙は使わなかった。その後、デシチンは薬箱に入っていたが、おいきの紙は使われなかった。
私は天理幼稚園に入れられた。30人ほどの子どもに数人の先生がいた。
オルガンの伴奏に合わせて、
むすんで ひらいて てをうってむすんで またひらいて てをうって
そのてをうえに むすんでひらいて てをうってむすんで
みんなで輪になり、手拍子でまわるのは楽しかった。
すると輪になっている私たちの中に、一人の男の子が割り込もうとした。誰もが手をのばし、それを阻んだ。その男の子は後ろに下がり、ぐちゅぐちゅと泣き出した。
「あらあ若様、どうされたんですか」
男の子は泣きじゃくりながら何かを訴えた。先生が、
「分かりました。みんなで仲良くしましょうね。中に入れるようにお願いしましょ」
先生は男の子の手をとり、輪の中に入れてくれるように優しく頼んだ。先生は男の子を輪に入れると、オルガンを弾き始めた。私は隣の女の子に聞いた。
「若様ってなんなの」
女の子は、私は知っているんだと得意そうに、
「あの子はな、私たち修養科の子どもと違うの。管長さんの子どもや」
「管長さんて何」
「あのね管長さんは天理教の一番偉い人、その人の子やから若様や中山善衛様や」
それから何日かして、若様はまた私たちの輪の中に無理矢理に入ろうとした。私は手で押しのけた。やはり若様は泣いた。先生が私たちのところにやってきた。紫の袴を履いている。私の頭をなで、
「茂夫ちゃん、意地悪をしては駄目よ。若様には優しくしてね」
先生からお化粧の匂いがした。母は匂わない。いいなと感じた。
私は若様を二度と泣かさなかった。
昭和12年の春3月、修養科も幼稚園も修了式を迎え、基隆に帰った。
2023-06-29 07:47
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