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武州砂川天主堂 №22 [文芸美術の森]

第六章 明治七年・八年・九年 4

           作家  鈴木茂夫

五月十八日火曜日、横濱・聖心教会。
 ジェルマンと作太郎は、司祭室で机を囲んでいる。
 「作太郎さん、あなたがこの教会に姿を見せてから、毎日、神の教えを学んできました。もう二ケ月になります。あなたは、これからどうされますか」
 「少しずつではありますが、ジェルマン神父さん、あなたのお話と聖書を読むことで、神の恩寵が見えてきたように思います。そして私は、あなたから洗礼を受けたいと思います」
 「あなたはもう充分に、洗礼を受ける資格がありますよ」
 「そこで私の思っているのは、私が洗礼を受ける前に、ジェルマン神父、私の村を案内したいのです。つまり、そこは私の信仰をしていく生活の場ですから、ぜひ、見て欲しいのです」
 「もちろん喜んで、行きたいと思いますよ」
 「私の村は、貧しい村です。それに貧しいだけではありません。卑しい身分だとされてきましたし、今もそうです。私がイエス・キリストを信仰することで、私も含めた村の人たちが、幸せになることができるだろうかと気がかりなのです」
「身分は人間が作り出したものです。神の前には、身分はありません。聖書を開いてみましょう。主は身分によって人を区別したことはないのです」

 イエス・キリストを信ずるに由りて凡て信ずる者に与へたまふ神の義なり。之には何等の差別あるなし。凡(すべ)ての人、罪を犯したれは神の栄光を受くるに足らず、功なくして神の恩恵により、キリスト・イエスにある腰罪によりで義とせらるるなり。
                 ロマ人への書第三章第二十二節第二十四節

 ここに書かれていることは、作太郎さんの疑問に応えるものです。イエス・キリストを信仰することで、神から与えられる恩恵には何の差別もありません。神の前には、すべての人は平等です。私たちは、誰もが罪人(つみびと)です。であるのに、神の恩恵を受けることができるのは、イエス・キリストが自ら私たちすべての罪をあがなってくださったからです」
 「このことを聞くのは二度目です。最初は、教会に来たはじめの日に聞きました。今、改めて聞くと、これは大切な言葉です。私にも村の人にも、大きな勇気をもたらしてくれます」
 「作太郎さん、私にもはじめて分かりました。あなたは、自分自身の幸せを願うのと一緒に村の人の幸せも大事にしているんですね」
 「私が子どもの頃、父春吉は、自分だけが良いとする人間になってはいけない。他の人のお役に立つような人間になれと諭しました。この教えを私は大事にしています。ですから、前にもお話ししたように、東京の学校に通っていた時も、自分だけが良いのだろうかと考えていました。そこへ、親戚の箭蔵からキリスト教の信仰こそが、正しい人間の生き方だと手紙をもらって、こちらへやってきたのです。」
 「作太郎さん、私も村の小さな教室で、神父に人の役に立つ人間になれと教えられ、神学校へ進みました。人の役に立つのはうれしいことです。そしてフランス国内ではなく、遠い日本で、主の教えを広める仕事をしたいと思うようになりました。あなたの村へ出かけましょう」

五月二十五日火曜日、神奈川往還。
 ジェルマンと作太郎は、朝早く聖心教会を後にした。作太郎の下壱分方村をめざすのだ。
 居留地を出て、野毛山を越え、戸部に入ると、水田が広がる。
 そよ風が心地よい。
 保土ケ谷、本宿(もとじゅく)、二俣川、今宿(いまじゅく)を過ぎる。向かい側から大きな荷物を背負った何頭もの馬と出会う。
「この道は、神奈川往還と言います。北にある八王子から生糸を積んで横濱へ運んでいるのです。昔は寂しい街道だったと言いますが、横濱の富地に商館ができると、生糸を外国人に売りつけるのに、この道を利用するようになり、賑やかになったんです。馬の荷物は見た目に大きいですが、生糸は重くないですから」
 「私の故郷はなだらかな丘陵の中にあります。そこではぶどうや小麦を栽培している。
見るのははじめてです。田の中に、規則正しく苗が植わっているのは美しい」
 ジェルマンはあぜ道を行く農夫に、父や母の姿を重ね合わせた。
 若い二人の足取りは軽い。
 町田、大野、鵜の森、相模原、淵野辺、橋本と、一気に歩み続けた。
 時刻は昼時だ。
 道路脇の道標(みちしるべ)に、「右・かながわ、左・はちおうじ」とあった。
 「ジェルマン神父、ここは鑓水(やりみず)と言います。この先でお昼の休憩をしましょう。ここでは、生糸の取引が行われています。関東一円から運び込まれた生糸、繭は、ここで値付けされ、横濱に運ぶのです。金持ちの農家は、商人としてこの取引に加わり、自宅の蔵に生糸や繭を収納し、高値がつくと、出荷して利益を上げています」
 集落の小さな橋を渡り、上り道に入ると右手に立派な屋敷が見える。入母屋造りの茅葺き屋根の邸宅に接して洋館が設けられてある。
 「ここの鑓水商人が建てたもので、異人屋敷と呼ばれています。」
 坂を上っていくと、いちだんと高い小山があった。そこには石段が頂上に延びている。小山のふもとには、七、八軒の茶店がの真新しいのぼり旗を立てて客を招いている。
 二人は、その中の一軒に腰を下ろした。
 「あの山の上に、道了尊(どうりょうそん)を祀ってあるのです」
 「それは何ですか」
 「道了は、偶数の僧侶です。さまざまな修行をして超能力を身につけたといわれます。商売繁盛にも御利益があると、生糸を扱う商人がつい最近、小山の上にお祀りしたばかりです」
 二人は、握り飯の包みを開いて頬張った。梅干しと鰹節の味わいが口の中に広がる。
 茶を含むと、握り飯が腹の中に落ち着いた。
 元気を取り戻し、再び歩きはじめて二時間、
 「もうあそこが私の村です」
 集落がみえる。
 畑で鍬をふるう人を見かけると、作太郎が手を挙げた。村人だ。ほじかれたように頭を下げると、勢いよく集落へ走って行く。作太郎がそこは、福岡という集落だと教えてくれた。
 村に入ると、最初の村人が知らせたのだろう、それぞれの家から、人影が現れた。二十人近い集まりになって、二人を囲んだ。みんな笑顔だ。好奇心に満ちた眼差しだ。
 「みなの衆、聞いてくれ、これが俺の先生のジェルマン神父だ。俺は二ケ月あまり、この先生について勉強していた。この先生は、キリスト教、つまりキリシタンの神父さんだ。俺はキリスト教の信徒になる。キリスト教の神さんは、人間は誰も平等だと言う。神さんの前では、差別はないと言うんだ。だから、みんなも俺と一緒に信徒になって欲しい。神さんの話は、この先生が話してくれる」
 「作太郎さんよ、お前さんは、だまされてるじゃないだろうな」
 誰からの声だ。
 「間違いないよ。俺にも、ウソか本当かの判断はできるさ」
 「作太郎さんが、そう言うのなら、間違いはないよな」
 この夜、作太郎の家の座敷は、人で埋まった。
ジェルマンは、正座して懸命に話した。話し終わって=時間、ジェルマンは膝を崩そうとしたが、足がしびれて、体から倒れた。
 どっと温かい笑い声に包まれる。ジェルマンは自らの話が、村人の心に深く沌み入ったのを感じてぅれしかった。

六月十八日金曜日、横濱・聖心教会。
 「作太郎さん、あなたはもう洗礼を受けた信徒です。そして、あなたの下壱分方村には、大勢の神を求める人たちがいます。ですから、私はあなたに伝道士として活躍して頂きたいと思います」
 ジェルマンが作太郎に語りかけた。
 「それはどういうことですか」
 「伝道士は、信仰をはじめた初心の方に、キリスト教の教理(カテキズム)を教える教師の役割を担います。また、教会で行われる祭儀で、司祭の補助をつとめます。あなたは、すでに一般の信徒のみなさんより深くキリスト教の教理を学んでいます。言い方を換えると、私はあなたに、伝道士になって頂きたいと、教理のお話をしてまいりました」
 「ジェルマン神父、それはとてもありがたいことです。それで私は何をすればよいのですか」
 「あなたの下壱分方の村で、伝道士として活動し、私と協力して、人びとが神と出会うための教会を造るように努力して頂きたいのです」
 「私は神を信じる作太郎として生まれ変わったように感じます。私の村で活動するのは本望です。私は村人に神を語ります。神を信じる仲間を一人でも多くふやすように、努力します」
 「作太郎さん、神父である私がお願いしたことで、あなたは伝道士なのです」
 「ジェルマン神父、ありがとう。明日、村へ帰ります。」

『武州砂川天主堂』 同時代社



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