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武州砂川天主堂 №21 [文芸美術の森]

第六章 明治七年・八年・九年 3

         作家  鈴木茂夫 

明治九年三月一一十一日日曜日、横濱・聖心教会。
 日曜礼拝のミサに、ジェルマンは、補助司祭の一人として祭壇の横に立っていた。聖堂の中は、居留地に住む大勢の在日外国人をはじめ、三十人近い日本人信徒で埋まっていた。その中に、目につく一人の若い日本人の姿があった。物珍しそうに聖堂の中や神父たちの姿を眺め回していた。
 ミサが終わって人びとが席から立ち上がり、出目の方へ歩み出した時、その青年はその流れに逆らうように、神父たちの方へ向かってきた。
 袷の着物に股引(ももひき)を穿いた中背の男だ。ジェルマンに軽く一礼すると、睨みつけるような眼差しで見上げて口を開いた。思い詰めている気配だ。
 「私は山上作太郎(やまがみさくたろう)と申します。キリスト教を学びたいと思って出かけてきました。親戚の人に勧められたのです」
 「今日は、山上さん、よくいらっしゃいましたね。お会いできてうれしいです。私はジェルマン・レジュ・テストヴイドです。よろしく。あなたはどうしてキリスト教を学びたいのですか」
 「親戚の人が勧めてくれたんです」
 「それは何という人ですか」
 「三芳箭蔵(みよしせんぞう)と言います」
 「三芳さんは分かります。三芳さんはこの教会で私から洗礼を受け、東京のサンモール修道院で修道女のために雑用をされています。熱心な信徒さんです」
 「テストヴィド神父さん、キリスト教のことを教えてくれるんですか」
 「もちろんですよ。失礼しました。あなたの質問はそのことでした。私の仕事は、みなさんにキリスト教のことをお話しすることですから」
 「よろしくお願いします」
 作太郎に青年らしい笑顔が浮かんだ。
 「その前に、山上さんではなく、作太郎さんと呼んでもいいですか」
 「どうぞ」
 「ありがとう。私もテストヴィドではなく、ジェルマンと呼んでください。その方が親しみが生まれます」
 「ジェルマン神父、わかりました」
  「作太郎さん、私はあなたを理解したいのです。あなたはどこから来た、どういう人ですか」
 「私は二十歳です」
 「作太郎さん、私は二十六歳です。同じ若者ですね」
 「えっ、そうですか。顔に一面のひげが生えているので、四十歳以上の人と恩いました」
 ジェルマンが笑った。
 「神父は若い人が多いのです。それで若く見られては、お話ししても軽く見られていけないと、ひげを生やすことにしています。これは秘密ですよ」
 作太郎も笑い出した。ジェルマンの眼差しは、紛れもない若者のものだった。作太郎は、本題の話に戻る。
 「私の生まれ故郷は、この横濱から北へ十二里(約五十キロ)の武蔵国南多摩都下壱分方村(むさしのくにみなみたまごおりしもいちぶかたむら)の福岡という処です。私の村には貧しい約八百人の人が農業をはじめ、皮革製造などをして暮らしを立てています。私の家は、質屋も営んでいます。生活に余裕があるおかげで、子どもの頃から寺子屋で文字を習い、高年までは、神田三崎町の学塾・同人社で英語を学んでいました。そこへ親戚の三芳箭蔵さんから、神の前に、人は平等である。人間は何のために生きているのか、なんのために生きなければならないのか、その根本のところを身につけることができるのは、キリスト教だと手紙をもらったんです。三芳箭蔵さんはしっかりした人です。その箭蔵さんがそう言うのなら、私もぜひ、その根本を知りたいと出かけてきたのです。
 「作太郎さん、あなたは正しい道を選んだんです。」
 「ジェルマン神父、私は何からはじめるのですか。」
 「作太郎さん、キリスト教は、イエス・キリストを私たちの救い主と信じます。そして聖書を最も大切な文書としています。聖書は二つあります。イエス・キリスト以前の預言者と神の約束を書いたものを旧約聖書、キリストの言葉や奇跡を、キリストの死後、弟子たちが書いたものを新約聖書と言います。私たちキリスト教信徒は、聖書を通じて、キリストを知り、キリストを学び、キリストを信じるのです。そしてキリストを信じる私たちは、洗礼、これはバブテスマとも言います。洗礼を受けて神の子である信徒となるのです」
 「聖書はどこで手に入りますか」
 「この教会には、日本語の聖書を用意してありますから、これを差し上げます」
 「聖書は暗記するのですか」
 「聖書には多くのことが書いてありますから、必要に応じて私がお話ししましょう。

 なんじら知らぬか、凡そキリスト・イエスに合ふバブテスマを受けたる我らは、その死に合ふバブテスマを受けしを、我らはバブテスマによりで彼とともに葬られ、その死に合せられたり。これキリスト父の栄光によりで死人の中より燈へらせられ給ひしごとく、我らも新しき生命を歩まんためなり。
                     ロマ人への書第六章第三節・第四節

 今ここに読み上げた内容が分かりましたか」
 「全く分かりません」
 「ここに書かれていることは、洗礼の意味と意義について語られています。まず洗礼とは、信徒になるための最も大事な儀式です。洗礼は神父が信徒の頭に、三度水を注ぎます。これによって信徒は新しい人・キリスト者となるのです。これは主イエス・キリストが、私たちの罪の償いのために、十字架に上がられ、死を迎えられました。そしてその三日後、主は復活されたのです。洗礼は主イエス・キリストの死と復活を偲び、私たちが新たな命、新しい生き方を生きるのです。少しでも分かりましたか」
 「言葉は分かりますが、その意味はとてもわかりません」
 「それでいいのです。これはキリスト教信仰の最も重要なことです。これを充分に理解するためには、多くのことを学ばなければなりません」
 「安心しました。でも、あなたが信仰について話してくれていることは、感じています」
 「ところで、あなたは信仰を学ぶのに、こちらの教会へ来ることができますか」
 「朝早く家を出て、早足で急げば、午後には到着します。お話しを聞いて、家に帰れば、夜中になるでしょう」
 「十里(約三十九キロ)の道を往復するのはたいへんです。あなたがよけれは、司教様にお許しを得て、私の隣で寝ればよい。そうすれば、信仰が早く進みます」
 「うれしいです。ぜひ、そうさせてください」
 山上作太郎は、住み込みとなって信仰を学びはじめた。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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