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海の見る夢 №41 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -機械仕掛けのマリー・アントワネットー
                澁澤京子                             

レントゲンというドイツの家具職人がマリー・アントワネットに送った「クラブサンを演奏するマリー・アントワネットの自動人形」というのがある。(you tubeでDavid Roentgen automaで検索すると観ることができます)これが素晴らしい。ホフマンの「クルミ割り人形」のクリスマスで,精巧につくられたお城の模型とお城の庭を散歩する人々の自動人形(オートマ)が子供たちにプレゼントされる。子供の時、機械仕掛けのお城と人形をぜひ見てみたいと思ったものだが、18世紀は、精巧な仕掛けの時計や自動人形が流行したようだ。

18世紀は同時に、ルソーの「自然回帰」も流行した。流行に敏感でお洒落なマリー・アントワネットはいち早く農婦ファッションに飛びつき、麦わら帽子と簡素な(シミーズ・ドレス)は、瞬く間に貴婦人の間で流行した。(マリー・アントワネットは当時のファッションリーダー。マリー・アントワネット人形もあったらしい。)のびのびと育てられたマリー・アントワネットにとって、プライヴァシーなど持てず、陰謀渦巻く窮屈なヴェルサイユ宮殿から逃げるためには、プチ・トリアノンでの素朴な田園生活が必要だったろう。プチ・トリアノンの庭はいかにも野生のままに見えるように設計され、曲がりくねった小道や洞窟などがつくられ、非常に凝った人工的な「野生の庭」となった。

「自然回帰」ブームはヨーロッパ中に広まり、田園生活を楽しむ貴族や富裕層が増えた。しかし、ルソーはただのブームの仕掛け人ではなく思想家。彼が目指したのはあくまで貧富や差別のない社会であり、自由で人間らしい生活だったのだ・・

ルソーが『エミール』の教育で目指したのは、(欲望のままで何が悪い)といった野蛮な「自然人」ではなく、小さい時から弱者や動物などに対する愛情や思いやりといった自然の感情を上手く引き出しながら育てられた「自然人」であり、世俗の価値観、つまり、お金や損得、人種や家柄や階級などの偏見に染まらないよう、親や教師から注意深く見守られ保護されて育てられた「洗練された上品な自然児」なのである。そういう意味では、ルソーの「自然人」は、マリー・アントワネットの人工的に作られた野生の庭、プチ・トリアノンに似ているのかもしれない。

ルソーは、「人間は自由なものとして生まれる」と考えた。社会制度や風習が人の生まれ持った自由を抑圧してしまうのである・・それでは、人は本当に自由なのだろうか?不平等をもたらすのは社会制度だけなのだろうか?

機械仕掛けのマリー・アントワネットはねじを巻けば、決められた通りにしか動けない。つまり決定論的なのである・・『決定論』・人は遺伝子などの自然法則、また生まれた環境によってほぼ決定されるという、人の自由意志を否定した考え方。古くは、ルターとエラスムスが「自由意志」を巡り論争した。ルターは「神の恩寵」にしか人に自由はないと考え、エラスムスは人の「自由意志」を主張した。自由意志の問題は倫理に関わってくる、人の「自由意志」の有無によってその行為の責任が問われるか否かになってくるからだ。しかし、「自由意志」を決定する「私」は「私」から決して逃れることができない。人は生まれた時から、遺伝子による能力や性格、生まれ育つ環境からの制約を受けるので決して自由とは言えない・・そうすると、自由意志を否定するルターの主張にも一理ある。その後、ダーウィンを経て、ドーキンスに至っては、自由意志を否定した決定論。それでは、私たちは機械仕掛けのマリー・アントワネットのように、遺伝子や生まれ育った環境の影響による、ただの操り人形なのだろうか?

量子力学の(非決定論)が登場して、ミクロの世界の非決定の重ね合わせの光子の状態に「自由意志」の余地があるのではないかという考え方も出てきた。しかし、ミクロの世界で観測者の観察によって決定されるとしても、光子がどういう状態であるのかを決定するのはやはり「偶然」なのでは?という疑問は残る、そこに人の自由意志などの人の思惑の入る余地なんてあるのだろうか?

最近、またピアノをはじめた友人がいる。20歳まで弾けた曲は少し練習すれば難なく弾けるが、それ以後に練習した曲は忘れていることが多いという・・おそらく20歳くらいまで人はかなりオープンで柔軟な状態で生きていて、周囲の影響を受けやすいという事だろう。とすると人の運動神経や味覚、聴覚、また価値観や趣味、嗜好、性格などかなり早い段階で決まってしまうものなんだろうか?人は無意識のうちに、どうしても自分の好みで取捨選択している。自分には好き嫌いはないという人は、自身の偏見や無意識に気が付かないだけなのである。遺伝子による生まれ持った性格や能力、子供の時の家庭環境、若い時の友人の影響はかなり大きいだろう。

「神よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける叡智をお与えください」というニーバーの祈りはおそらく正しい。そのためには自分自身の偏りや欠点、無意識の癖に気が付くのが大切だろう。「変えられないもの受け入れる」ためにも「変えられるものを変える勇気」にも、デリケートな知性と勇気が必要だが、人は他人の欠点や偏りは容易に気が付いても、自身の癖や偏りにはなかなか気が付かない。理性的な人は、少なくとも自身の自己中心や偏り、無意識の動機に自覚がある(内省すれば一番自分を分かっているのは自分自身という事に気が付くだろう)が、たいていは、自分自身を冷静であると思いたがるもので、実は自分の都合や好き嫌いでえり好みして判断している事が多い・・あるいは、言葉のトリックに引っかかってオウムのように主張しているだけなのである。個人の想いをなんとか言語化できる人は案外少なく、オウムのように他人の言葉をそのままうのみにして復唱するだけか、あるいは「皆が~」と複数形にして、まるで皆?の代表者であるかのように自己主張をしたがる人は結構多い。

~人体やすべての動物の体の中で生じていることはすべて、時計の中で生じていることと同じように機械的です。差異はただ、神の発明による機械と、職人の作ったものとの間にある差異ぐらいのものです。~ライプニッツ

ライプニッツはデカルトと同じく、心と身体を別の秩序に属するものと考えた。もちろん、心は目的を志向し、身体はあくまでその手段として存在するので、デカルトにもライプニッツにとっても「自由意志」は存在する。空腹な状態で坐禅をしている時、よく、(デカルトの心身二原論)が浮かんでくる。「お腹が鳴ったら恥ずかしい」と思う私の心(意志)と、空腹のためお腹が鳴るのは無関係であって、まるで心と体は別々の秩序に属しているとしか思えないからだ。また、私の心(意志)と、肉体の老化現象もまったく無関係ではないか・・ほとんど変わってないようにしか見えない私の精神と、肉体の老化のギャップって、年を追うごとにどんどん広がってゆくような・・

そうすると、私の心と、自然法則に支配されている私の身体とをどのように折りあいをつけたらいいのだろうか?

周知のとおり、音楽好きのルソーは「むすんでひらいて」などを作曲した。ルソーは言語の根底には、情念があると考えた。情念から、音楽・言語が生まれたと考えるルソーにとって情念を表す「詩」は雄弁の源であり、そこで音楽で最も重要なのは情念の伝達、つまり歌、旋律(メロディ)ということになる。

ルソーと同時代、ラモーという作曲家がいた。バロックの音楽家として、クラブサン曲、室内楽アンサンブルなど数々の業績を残したが、有名な「キラキラ星」もラモーが作曲したもの。ピュタゴラスの(数比の理論)を継承し、音楽理論である『和声論』を書き上げた。ルソーの「旋律」に対し、ラモーは「和声」(ハーモニー)を重視し、ルソーの「情念」に対し、ラモーは音楽の根底に「数学」を持ってきたのであった。そうしたラモーを、ルソーは徹底的に批判した。

~雷鳴、水のさざめき、風、雷雨は単なる和音によっては上手く表せない。どうしても音だけでは精神に何も語らず、聴こえるためには事物が語らなければならず、いかなる模倣においても言説のようなものが自然の声を補完しなければならない。音によって音を表現しようとする音楽家がいたら、間違っている。そのような音楽家は自分の芸術の弱みも強みも知らない。自分の芸術について、趣味も光明もなしで判断しているのだ。歌によって音を表現しなければならないこと、蛙を鳴かせるのなら歌わせなければならないことをその音楽家に教えよう・・・『言語起源論』ルソー

ラモーを批判したのはルソーだけではない、ディドロ、ダランベール、数学者のオイラーまでもがラモーを批判している。確かにルソーは大切な事を言っているのであり、音楽の根底には数学的秩序が、いや、『万物の根源は数なり』というピュタゴラスの考え方に、人は無意識のうちに反発するのかもしれない。数学のような抽象が、音楽の根底にあるなど信じがたく、「数学」からは、冷たい、無機的、機械的、無目的性・・といったイメージを、人はどうしても持ってしまうためか?18世紀、精巧な時計や自動人形が作られると同時に自然回帰が流行したのも、そうした機械的な運動に対する人々の反感なのかもしれない。

しかし、人の歌声や、風の音に心打たれるのと同じように、私たちは人為的に定められた12音階、平均律の音楽にも感動するではないか。当時、評判の悪かったラモーの『和声論』はその後、音楽理論として完成され、今のジャズやロックの礎になったのである。

「情念」と、それとはかけ離れたところにあるように見える「数学」。音楽はこの二つの要素を持っている。私たちは、数学という抽象がベースになった音楽に感動する。しかも、音楽による感動はきわめて身体的なものになる。時々、すごく音楽を聴きたくなることがあるが、それは頭ではなく、身体全体で秩序を欲する感じなのである・・

心身二元論。「心身一如」というものがあるけど、まず自分の身体と心を調和させるためには呼吸はとても大切で、呼吸による調和は自分の周囲にも及んでいく。呼吸はリズムであり、数学的であり、音楽であるのであって、生まれるときも死ぬときも、呼吸によってはじめられ、呼吸によって終わる。「情念」のようなはっきりとしたメッセージを持たない、呼吸による「数学的なリズム」こそが、生命の根源を支えているのである。

子供の時、夜寝ていると心臓の音が太鼓のように鳴り響いて聴こえるので怖くて眠れなかったことがあったが、心臓の音も呼吸も、リズムというのは身体的なものであって、そう考えると、ピュタゴラスの「万物の根源は数なり」が、真実味を帯びてくる・・この世界の根底にあるのは数学的な秩序なんだろうか。

もう一人、(唯一の真実は数学)と考える哲学者にスピノザがいる。スピノザは因果の枝分かれ、(もしも・・)の可能世界を否定した。スピノザにとって、存在するものはすべて自然法則により必然的に決定されたものなのである。それは、はじめから定められた人の「宿命」ではなく、因果によりその都度、ランダムであれ、無意識であれ、意識的なものであっても、その個人の必然によって決定されてゆくのである。そして、それは数学のようにあくまで無目的なものなのだ。

私たちはそれぞれ、遺伝子や環境によって決定された実に不自由な世界に住んでいるのだろうか?そうではなく、スピノザこそが個人の「自由」の可能性をこの不自由な決定論的な世界に見出そうとしたのではないか、と私は思う。

ストラヴィンスキーは『音楽の詩学』の中で、次のような、G・K・チェスタートンの美しい言葉を紹介している。

「優雅にたわむものすべてにおいて、硬直への努力が存在するに違いない。弓はただ曲がらないように努めているからこそ、曲がるさいに美しいのである。正義が慈悲に屈するように、少し譲歩する堅固さこそが地上の美すべてである。あらゆるものがまっすぐであろうと努め、幸いにもいかなるものもそうなるに至らない。まっすぐに成長するように努めなさい。そうすれば生命があなたをたわめてくれるだろう。」

音楽というのは、ルールや制約があるからこそ、逆に自由な演奏が可能になる。音楽と同じように、私たちがどんなに、遺伝子や環境の制約を受けていても、寧ろ制約があるからこそ、自由に生きることが可能なのではないだろうか?そして、まっすぐであろうとして風によって曲がる木のように、人生ではいろいろな困難にぶつかる。どんな風が吹こうと、状況に流されたり、屈することなく自分自身であろうとすること、自身でありながら、その能力を最大限に発揮していくこと、しかし、そんなに思い通りに行かないのが人間だけど、思い通りに行かなくても常ににまっすぐ自分であることに、本当の自由と美しさがあるのだろう。そして、私たちは、日々の偶然の出来事にたわみながら、まるで偶然の音楽のような人生を生きているのかもしれない。


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