武州砂川天主堂 №12 [文芸美術の森]
第三章 明治4年 4
作家 鈴木茂夫
十月二十二日、東京。
東京へ着いた。予定通り芝源助町(しばげんすけちょう)の清八方に宿をとる。寿貞は、届に書いた洋学修業に出てきたのではない。生活の糧を得るために出てきたのだ。では何をするか。あてがあって出てきたのではない。出てきて何とかしようと思っていただけなのだ。
寿頁は思いあまって、市内の散策に出かけた。宿を出て半時ばかり、乗京城と名を改めた皇居のまわりに出た。半蔵門の前で、物売りの挽く大八車に乗る酔っ払い男を見かけた。
男は、「雲か山か呉か越か……」と頼山陽の詩を大声で吟じている。よく見ると、それはかっての部下の一人だった鈴木亦人だ。
「おおい、鈴木君ではないか」
その声に鈴木も気づいた。
「やあ、これは珍しい。竹内隊長ではないですか」
亦人は、大八車から降り、寿貢の前に立った。中肉中背、色白の青年だ。
「君はどうして暮らしているのか」
寿貞の問いかけに亦人は、頭をかいた。頬が紅潮している。
「いやあ、実はこれこれかくかくしかじかと、歯切れの良い説明ができれば良いのですが……。でもいいです。妙な具合の成果洲なんですから……」
二人は、城の堀を見下ろす道の上に腰をすえた。
「私は、いや私だけじゃない、仙台藩、会津藩などの元藩士の青年二千人あまりが、なんということはなく、いつのまにか切支丹の宿舎で暮らしているんです」
「いきなり、そう言われても皆目見当がつかない」
「無理もありません。しかしそうなんです。築地の町家壷がそうなんです。『フランス語教えます・マラン』という表札があるところです。マランは、フランス人でカトリックの宣教師。切支丹の伴天連ということです。私は仙台から出てきて、何か仕事はないかと、歩き回りました。しかし、仙台の武士だというと、賊軍の大じゃ駄目だと、どこでも断られました。それで、どうしようもなく町を歩いていた時、今言った表札を見かけて訪ねてみたんです。すると、マラン神父が顔を出し、住み込んでも良いから、入りなさいと入れてくれたんです。半信半疑だったんですが、宿泊はもちろん、近所の婦人がやってきて食事も作ってくれます。フランス語よりは、神様の話を聞いて下さいと言われます。神父と共に祈ります。実は教会なんですね。われわれの生活費や食費は、教会が負担してくれているんです。しかし、日本人がカトリック、つまり天主教を信仰することは禁じられています。ですから、もし、何かあった時は、ここは教会ではなく、フランス語を教える学校だということにしているんだといいます。それよりも私は友人二、三人に声をかけ、一緒に暮らすようになりました。表札を見て訪ねてくるのは、職も見つからず、喰うにも事欠く、東北の若い元武士たちです。私は話を聞いているうちに、カトリックの信仰も良いなと思っています。きょうは、少しばかり、神父から小遣いをもらったので、久しぶりに酒を飲んでしまいました」
寿貞は、霧の中から一筋の光が差し込んでくるように思えた。
「鈴木君、おもしろい。俺もそこへ連れていってくれないか」
「隊長、本気で言ってるんですか」
「手元(てもと)の金もわずかだし、仕事の当てもあるわけはない。当分、そこで暮らして、成り行きを考えることにしたいのだが……」
寿貞は亦人と、芝の宿舎に戻り、弟に俺は築地に行くと伝えた。
『武州砂川天主堂』 同時代社
『武州砂川天主堂』 同時代社
2022-10-14 21:30
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