多摩のむかし道と伝説の旅
-神田川水辺の道と伝説を巡る旅-3
原田環爾

佃橋の北詰めから神田川の掘割の水面近くを覗き込むと、直径50cmくらい の土管から勢い良く水が流れ出しているのが見える。聞くところによれば玉川上水の水が環八道りの地下を経由してここへ導水され神田川に放流されているという。因みに玉川上水は神田上水だけではなお不足する江戸の水事情を解消するため、幕府の命により承応2年(1653)玉川兄弟が羽村堰から四ッ谷大木戸迄の43kmを難渋の末開削した上水で、以後数百年に亘って使われてきた。現在は飲料水用としては小平の監視所迄で、そこから下流は一時使用されず空堀になっていたものを清流復活事業の一環として処理水が流される様になり今日に至ってる。
高井戸駅前の佃橋からはとりあえず右岸をとることにする。というのもここから先、季節の頃であれば見事な桜が楽しめ、また公園や緑地が比較的右岸沿いに多いからだ。

高井戸橋、正用下橋を過ぎると池袋橋の袂に来る。池袋とは橋の北側に袋状の遊水池があったことによる。橋の袂からすぐの所右側にフェンス越しに広がる郵政グラウンドが現れる。正しくは「郵政省中央レクリエーションセンター」という。東西に長いグラウンドでテニスコートや野球場からなる。 かつてはこの敷地は水田で、その西の一角に「さんぜんの釜」と称する泉があり、傍らに弁天様の祠があったという。実際グランド西の細い路地をフェンスに沿って50mも進むとフェンスのすぐ中に八塚弁財天の祠がある。残念ながらここには入口はないので中へ入れないが、次の乙女橋の袂にある正門から管理事務所の許可を得れば入ることはできる。更に路地を辿ってグラウンドの裏に回ればハケの傾斜面に綺麗な整備された区立三泉淵緑地があり、かろうじて「さんぜん(三泉)」の名を残している。
森泰樹著「杉並の伝説と方言」にさんぜん釜の伝説が載っている。江戸時代のこと、弥五左衛門という百姓が泉


のほとりで草を刈っていると、小さな蛇がいびきをかいて寝ていた。弥五左衛門は土の固まりを投げつけると、蛇はたちまち大蛇となり襲ってきた。夢中で鎌を横に払ったところ蛇の首に当った。噴き出た蛇の血で泉は三日三晩真っ赤に染まった。弥五左衛門は逃げ帰ったが、まもなく高熱を出して死んでしまった。その後2代目弥五左衛門は蛇の頭を中野の宝仙寺に納めて供養し、蛇の切れ端は記念に小さな木箱に入れて自宅に置き、「祟りがあるので箱を絶対に明けないで」との遺言を残して亡くなった。ところが時代は下って明治30何年、茅葺屋根の葺替えの折、屋根裏から木箱が出てきた。家の母子が好奇心から箱を開けるとミイラ化した蛇のしっぽが入っていた。ところがまもなくその母子は高熱を出して死んでしまった。更に明治の末にも麦打ちの手伝いにきた男が箱をあけ、やはり亡くなった。同家では祟りを恐れ、さんぜん釜のほとりの弁天様の祠に納めたが、戦後土地が郵政省に売り渡されたのを機に、木箱は井の頭弁天祠に移されたという。

再び乙女橋で神田川に復帰する。それにしても乙女橋とはいかにも麗しい橋名である。何かロマンチックな昔話でもあるのかと思いきや、残念ながらそうで はなくて「お留橋」の名が転化したものという。すなわち乙女橋の左岸一帯は、江戸時代、徳川御三家の鷹場として将軍家が定めた場所で「お留め場」といわれていた。「お留め場」は、その中で行う農耕、建築など日常の生活を厳しく規制されており、この橋は自由に通行できない「お留橋」であった。慶応3年(1867)鷹狩り制度が廃止された後、「おとめ」の音を当てはめて「乙女橋」と名付けられたという。ちなみに乙女橋の北側を50mも入れば「三井の森」という雑木林で覆われた瀟洒な公園がある。寄り道するに値する癒やされる空間になっている。
元の神田川沿いを更に進むと右手に小高い丘に豊かな雑木林で覆われた塚山公園が現れる。それとともに公園前の神田川には塚山橋という味わいのある石橋が架かっている。静寂に包まれたこの辺りの空間と見事に調和し、何

とも言えない風情がある。塚山公園は下高井戸塚山遺跡と称する縄文時代の遺跡が出土したことで知られる。遺跡は塚山公園の北側に突出する台地部分に広がる縄文時代中期約3500~4500年前)の集落遺跡で、昭和10年から昭和48年頃にかけて数度の発掘調査がなされ、200軒を超す集落跡が発見されたという。中央部分に広場を形成し、縁辺部周辺に住居を構築する景観的特徴を持っていた。園内には昭和48年に発掘された1号住居跡をモデルに不燃化材を使って竪穴住居が復元され、住居内には当時の生活風景が再現されている。なお竪穴住居の傍らに建つ公園事務所には塚山遺跡の出土品が展示されている。

塚山公園の東を出ると神田川には鎌倉橋が架かっている。橋の南詰には「鎌倉街道」と刻んだ石碑が立っている。その名の通りこの橋を通る南北の道は鎌倉道と言われている。橋の袂の由緒書によれば、江戸時代の「武蔵名勝図会」に「上高井戸の界にあり、古えの鎌倉街道にて・・・いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」と記され、また

「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されているという。 また他の一説では、長禄元年(1457)太田道灌が江戸城を築く際、工事の安全を願い、家臣に命じて下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮を勧請した折に、鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたともいう。 鎌倉時代にはこの付近に陣屋櫓が作られ、室町時代の太田道灌の支配地になってからは、家臣某が任に当たっていたという。ただ江戸時代以降は街道は寂れ、記載された「野径の如し」の様に一部を残すのみになったという。(この項つづく)
2022-09-28 19:26
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