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武州砂川天主堂 №9 [文芸美術の森]

第三章 明治四年 1

         作家  鈴木茂夫

三月二十五日、横濱・聖心教会。
 聖心教会には、マラン師、アンブリユステル師、ミドン師の三人が在住している。三人は司祭室で机を囲んでいた。マラン師、アンブリエステル師は共に二十九歳、パリの大神学院の同級生。五年前の慶應三年にそろって来日、日本の生活と日本語に習熟している。ミドン師は三十一歳、大神学院での年次が若く、二年前の明治三年に来日、日本語はまだおぼつかない。
 主任格のマラン師が口火を切った。
 「新政府が東京を首都として新しい政治体制を創り上げている中で、どのような布教を展開するべきかを検討しよう思います。この横濱の教会は、今から十年前の文久元年に創建されました。居留地(きょりゅうち)の中に住むわれわれ外国人のためという名目です。日本国内では、キリスト教信仰は、厳禁されています。ですが、日本人の信徒もぼつぼつ増えています。私たちの布教の目的は、日本人の信徒を生み出すことにあります。であるならば、この際、首都東京に教会を創るべきではないだろうか」
 アンブリユステル師がうなずいた。
 「東京の教会には賛成です。ですが、教会を創っても、政府がキリスト教信仰を禁止している中で、日本人信徒を獲得できるだろうか。もし、獲得できたとしても、日本人信徒が逮捕されたり、拷問されたりするようなことはないだろうか」
 ミドン師がそれに応じる。
 「われわれの働きかけにより、信徒になった日本人が、信徒になったばかりに困難を背負うのは避けるべきです」
 マラン師が微笑を浮かべて、
 「私たちの使命は、日本にキリスト教の福音を伝えることにあるのは言うまでもない。それと同時に、信徒に迷惑が及ぶのを避けるのは賢明だ。この二つを解きほぐす方法を探し出せばよいのですよ。私は思うんだ。教会は創らない。教室を創るのはどうだろう」
 「マラン神父、あなたは何を言い出したのですか」
 マランは悪戯(いたずら)を思いついた少年のように、
 「私は、民家を借り、フランス語を教える教室を開こうと思う。そこには、教会に必要な祭壇も設ける。そこで、集まった生徒たちには、寄宿合のような生活をさせ、神の話をする。また、フランス語で聖書を学ぶ。祭壇で礼拝もする。日本の官憲が取り調べたとしても、そこはフランス語の教室だと言える。寝泊まりしているのは信徒ではなく、生徒だと答えればよい」
 了ン′リエステル師は手を叩いた。
 「マロン神父、それはおおしろい考えです。やってみる価値はありますよ。」 
  ミドン師は
 「ともかく、取り親んでみることが大事ですね。私も賛成です」

三月二十八日、築地(つきじ)
 マラン師はミドン師を伴い、首都東京に伝道の拠点を設けるため、横濱天主堂から波止場に向かい、連絡蒸気船稲川丸に乗って築地へ向かった。
 築地・鉄砲洲(てっぽうず)一帯に居留地がある。これは安政五年(一八五八)、徳川幕府がアメリカ・イギリスはじめ五カ国と通商条約を結んだ際、箱館・兵庫・神奈川・長崎・新潟五港の開港と江戸・大坂の開市(かいし)を約束した。しかし、幕末の混乱のため、江戸の開市はのびのびとなっていた。明治維新で、江戸が東京と変わった明治元年(一八六八)、新政府は、隅田川に画する鉄砲洲に軒を連ねる多くの武家屋敷を接収して在日外国人のための居留地を造成した。
 居留地の周辺には、鉄砲洲川、築地川が縦横に走っており、すべて水路で囲まれている。そして居留地につながる橋のたもとには、関門が設けられている。尊皇接夷を叫ぶ過激な武士が、外国人を襲って殺傷することを防ぐための措置だ。
 居留地は、一区から五十二区までに区分され貸し出された。そこには、新しい西洋風の建物がぼつぼつと建てられている。その屋敷には、西洋人の姿がちらほらする。ここの住人は、医師、外交官、教師、技術者、職人などだ。
 横濱の居留地が貿易商を主体としているため、賑やかなのとは打って変わり、築地は物静かな街となっている。住み込む人が少ないため、空地も目立つ。
 外壁を石組みと白壁で構成した一一階建ての上部に、塔屋を構成した運上所は、関税と、入国管理業務を担当。日本と外国を結ぶ窓口となっている。
 アメリカ、イギリス、オランダ、ポルトガルの公使館には、国旗が掲げられ、特別な地域であることを示していた。そしてそれに隣接する町屋は、日本人との雑居地と定められた。雑居地には、西洋人の姿は見えない。
 二人は築地周辺をあちこちと歩き回った。そして築地本湊町、稲荷橋のたもとの一軒の町家(まちや)を借り受けた。ここは東京市場区域内で、築地居留地に隣接しているため、外国人が日本人との話し合いで、家屋の貸し借りが認められている地区だ。      
 この家は、元来が商家だったのだろう。五間(約九メートル)間口の平家造り、表の店舗の他に、奥には座敷を入れて四部屋ある。すぐに横濱から祭具を「式運び込んだ。ところが天井が低いため、神父の頭がつかえてしまう。そこで入り口の店として使っていた床板を取り払い、土間すれすれに、床板を張り直した。「稲荷橋教会」の誕生だ。表には、日本語で「フランス語教えます・マラン」と表札を掲げた。食事や部屋の片付けには、近所の主婦に依頼、ともかくも、東京での伝道拠点は確保できた。マラン師とミドン師は、ここに生活しはじめた。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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