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武州砂川天主堂 №5 [文芸美術の森]

第一章 慶應四年・明治元年 5

         作家  鈴木茂夫

六月二十三日、武州・砂川村

 五日市街道からガラガラと車輪の音が聞こえてきた。
 源五右衛門は、長屋門の前に出た。二頭立ての馬車から、江藤新平が降り立った。
 「いつだったやろうか、言うた約束ぞ。朝飯も喰うや喰わんで、馬車に乗ってここさい来た。東京からは、たいてい遠かったばい。わいの村がどきやん処か見とうなってさい」
 「ありがとうございます。私もきょうのお出でをお待ちしておりました。」
 「まずは、座敷へお入り下さい」
 江藤は、妻女が差し出した茶を一気に飲み干して、お代わりを所望した。
 「江藤様、ご覧の通りの田舎家でありますが、多摩川の鮎と、わが家の孟宗竹のタケノコで、お昼を用意しております。それに今夜はわが家にお泊まり下さい」
 「そぎゃんね。どっちでん、おいが好物たい。そいに泊めてくれるっとね。うれしかね」
 江藤は、笑顔を見せた。それは無邪気な一人の男の笑顔だった。
 江藤は、巧みに鮎をさばいて口に運ぶ。
 「うんにゃあ、珍しか昧ね。うまかあ」
 盃を交わすと、一段と話は弾んだ。
 江藤は、書棚に積んである多くの書籍を眺め、
 「砂川君、あんたはただの名主じゃなかて、学問にも見識のあるごたっね」
 「恐れ入ります」
 「百姓に何ぼ一番してやるとがよかか」
 「名主は、村人を束(たば)ねます。その眼目は経世済民、つまり村人の暮らしが成り立つように、さまざまな手だてを講じることでございます」
 「うん。あんた、どこから、そぎゃん思うたと」
 源五右衛門は、面を改めた。軽く領くと、書棚から一冊を引き出した。
 「大切なご質問には、真正面からお答えするのが筋かと存じます。青臭い書生談義になるかも知れませんが、申し上げます」
 源五右衛門は、手にした書籍を開いた。
 「これは佐藤信淵(さとうのぶひち)の『経済要略』であります。ここに経済の眼目が記されております。そして私も、これに従うことにしております。読みしげてみましょう」

 経済トハ、国土ヲ経営シ、物産ヲ開発シ、部内ヲ富豊シ、万民を済救(さいきゅう)スルノ謂(イイ)ナリ、故ニ国家ノ主タル者ハ一日モ怠ルコト能ハザルノ用ナリ。若(モシ)夫(それ)経済ノ政ヲ忽’ゆるがせ)ニスルトキハ其国必ズ其国必ズ衰耗(すいもう)シテ、上下皆財用二困窮ス。食物・衣類ノ足ラザルニ及テハ、万民皆天然ノ本性ヲ喪(うしな)フ

 読み終えた源五右衛門は軽く一礼した。江藤は膝を叩いて、これに応じた。
 「打てば響くと言うばってん、そりゃ、あんたのごたる人ば言うとばいね」
 「江藤様、あなたには世間話をしても、だらだらと話の前置きをしても仕方がありません。あたしの言いたいことを申しあげましょう」
 「源五右衛門さん、俺が性分ばのみこんだこたんね。そいがよか。その話て、どがんことね」
 「あなたもご存じの玉川上水は、羽村から江戸まで、いや失礼、江戸じゃねえ、東京まで水を運んでいます。それは東京に水を送る六つの上水の一つです。その長さは十三里 (約五十一キロ)、ここに船を浮かべて土地の産物を運ぶことができたら、多摩の村々の生活が豊かになる。これは昨日今日、思いついたことじゃありません。昨慶応三年(一八六七)十月に、作事奉行(さくじぶぎょう)に願い出たこともあります。担当しているのは上水方のお役人です。親身になって願いの筋を吟味して頂き、水を汚さなければ、差し支えないとという内々のご意向までも伺っておりました。しかし、今にして思えば、徳川様の屋台骨が揺らいでいた時でしたから、結局はお認め頂けないままに終わりました。その時に願い出た目論見は、次のようなものです。まず、船を百般揃える。船の寸法は、幅四尺(約百二十センチ)長さ五間半(約十メートル)。船には上り下り共に、十駄(約一千三百五十キロ)積み、一月に六往復する。船を操る人足は、下りで三人、上りは曳き船となり、三日がかりですから、九人となります。これの見返りとして一年に一千八百両の運上金と砂利百三十三坪三合(七百七十七立方メートル)を納めさせて頂きます。まあ、こういった目論見でありました。それと同じ内容で、お願いしたいのです」
 「あんたも知っとろうが、俺は東京府の会計担当判事たいね。新政府は、形ばつかい、きまっとんぼってん、どこも金の足らんとよ。何ぼやるでん、金のない限り、手も足も出んばい。年間、一千八百両の達上金ないば、東京府でん良か数字よ。じっとして水ば運ばんで、、水に船を浮かべ、産物は運ぶ、そこから利益ば生み出すということね。三方一両得というわけたい。おもしろか。計画ばまとめて、東京府に提出してくんしゃい。俺からも話ばしとくけん」
 「江藤様、これが実現すれば、村の暮らし向きは良くなります。お力添えは、よろしくお願い申し上げます」
 「砂川君、くどかごたばってん、ちゃんと関係の村々の意見ばまとめ、船を走らせんにゃあ、何ぼせんばいかんか、要領ようまとめて準備ばすすめるのがよかぞ」
 源五右衛門は、うれしかった。通船について、新政府にわたりはついたのだ。今度こそは、思いがかないそうだ。
 源五㍍南門は、福生(ふっさ)の名主田村半十郎を訪ね羽村の名主嶋田源兵衛にも同席
してもらった。この三人は、それぞれの村の名主であるとと共に、多摩川の時間理にあたる水番人でもある。、
  源五右衛門が話を切り出した。
 「まるでひょんなことから、東京府の会計判事を務める江藤新平様の知遇をえてすっかり昵懇(じっこん)になったんです。上水に船を浮かべる話をしたところ、応援しようと請けあってもらえました。私ども三人で、新政府に願い出たいと思います。相談させて頂きたいのは、段取りです」
 半十郎がうなずいた。
 「源五右衛門さん、お手柄だったねえ。ご一新で船が走るとはね。さてこうなると、腰をすえてじっくり準備しなくちゃならないね。急いてはことをし損じるよ」
 源兵衛がそれを受けた。
 「半十郎さんのご意見はもっともだ。上水は、水を通す目的にだけ作られている。船を適すとなりや、場所によっては幅を切り広げたり、船をどこかにため置くためには、やはり上水を切り広げる工事が必要だ。もうひとつは橋だ。船の通行には、いまある橋の高さでは低すぎる。安全に船が通るには、橋を高くしなきやならない」
 源五右衛門もそれに応じた。
 「源兵衛さん、お話はみんな大事なことだね。それによ、肝心の船は地元でつくらなきやならないからな」
 半十郎が手を打った。
 「そうだね。その船だよ。俺はね、昨年、村の講の連中に連れられて、甲州は身延山(みのぶさん))の久遠寺(くおんじ)に参詣に出かけた。甲州街道を下って韮崎(にらさき)まで行き、そこから鰍沢(かじかざわ)の船だまりから、富士川通船の高瀬舟で身延まで乗ったんだ。約十三里(約四十四キロ)の行程。川の流れが早いから二刻半(三時間)で着いたよ」
 「俺たちも、その鰍沢の船大工を呼んでくるといいな」          
 「ところで、上水の仕事は、徳川様のご家来衆が、そのまま引き継いでいる。みんな気心の知れた方たちだ。俺たちがきちんと根回しをして、了解をとりつけるようにしなきや」
 相談はとんとん拍子にまとまった。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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