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梟翁夜話 №114 [雑木林の四季]

「心安まるの記」  

      翻訳家  島村泰治

わが庵の西方遠からぬ処に、百穴と称する古代人の岩墓跡がある。吉見と云ふ町だが、此処は古代岩墓跡のメッカのやうで、この町の一角に広がる八丁湖公園なる緑地にもそれが数基あり、百穴よりは保存状態がいいらしい。

今日は日曜、常なら恒例の喉鳴らし(カラオケ)の日だが、梅雨間の好天気は外歩きに限るとの女房どのの発議で俄かの散歩となった。行先はその吉見の八丁湖公園、ひと型の湖は一周一キロ半、折々に緑に覆はれる格好な散歩コースだ。このところの畑作業が高じてやや足腰に疲労感が残るものの、老いての歩きは欠かすべからずの知恵もあるからと、儂はええいと腰を上げた。

梅雨とは名ばかり、このところの薄曇りは鬱蒼しいい限りだが雨模様は左程ではなく、稲作農家はさぞや気を揉んでをられん日々、今日あたり湿り気は一向に無く将に散歩日和、八丁湖公園は手頃にひと気が薄く例の神経を煩わされぬ気安さにまずは心が安んだ。

神経云々とは云ふまでもない。誠に噴飯の極みだが、世間には此の期に及んでマスク付きの羊たちが群れてをる。愚かなことよと、八丁湖公園に至る手前の道の駅に立ち寄った折、女房どの共々にマスクなしで店内を逍遙、時ならぬ買い物にいっ時を過ごした。折しも見かけた格好の山芋や生姜の包みを籠に入れながら思ふ様、もしマスク着用を迫られたなら「吉見には今どきコロナはおらぬぞよ」と応じるべしと心算《こころづもり》をしてをったのだが、その懸念は無用、店の人たちはこちらのマスクなし顔を気さえ掛けぬ風情だった。大方は内心マスクの愚に気付いている様、先ずは快哉。

八丁湖公園の周囲はランナーたちにも格好の走り場で、歩きながら幾たりかのランナーに脇を走り過ぎられた。流石に彼らはマスクなしだったが、気づけば散歩に興ずる連中の大多数とは云わぬが相当数がマスクを外してをった。日頃マスク羊の群れを見慣れた目には、これは誠に新鮮でこれまた何とも心安まる光景ではあった。

八丁湖公園には随所に休み椅子が設えてあり、ひと休みの折に役立ってをる。その一つに中老の夫婦と思しきふたり連れが手のひら大の笛を合奏してをった。女房どのが聞き咎め、ややあって拍手をすればおふたりは軽く会釈、鳩笛かと問へばオカリナだと。さもありなん、如何にも心安まる風情よと称えればまたも軽く会釈あり。マスクを見かけぬ快さに加えてオカリナの重奏を味わうなど、日頃得ざる安心を覚えた次第。

八丁湖公園散策はこれが二度め、周囲二キロに至らぬのはやや歩き足りないにせよ、今日のやうに多少の疲労が残る折の散歩には格好な処だ。わが庵からはほぼ十キロ、あれやこれやの選択肢のなかに八丁湖公園も十分に叶ふ。ましてや、マスク無しの羊を多く見かけた快感とオカリナの合奏を楽しむ中老夫婦の快い記憶も手伝って、さうだ彼処にしやうか、と八丁湖公園を選ぶことが何時かなあらうかと思ふのである。



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