SSブログ

多摩のむかし道と伝説の旅 №81 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅
                  -武蔵嵐山の栄光と悲運の武将の里道を行く 3-

               原田環爾

3-1.jpg これより鎌形の木曾義仲生誕の地を目指す。二瀬橋を渡り都幾川右岸の堤に入る。堤は背丈の低い雑草で覆われた土の小道で、しかも堤に沿って延々と桜並木が続いている。季節の頃は素晴らしい桜風景を見せてくれることだろう。右手都幾川の遥か北方向には釣鐘をかぶせたような大平山が遠望できる。一方左手堤防下には大蔵と鎌形の広大な田園風景が広がる。振り返ると、先の二瀬橋の向こうに雑木林で覆われた菅谷館跡の全貌を望見することができる。間もなく堤は川筋に沿って少しずつ左方向へ蛇行して行く。やがて千騎沢橋の袂に来る。橋の袂から北に伸びる道に目をやると、大平山を真正面に望むことができる。
 千騎沢橋を過ぎると対岸に丘陵が迫り、川筋は一段と南へ蛇行し、水辺を包む雰囲気も次第に鄙びた景観に変貌してくる。やがて前方に淡い黄色の欄干に偽宝珠を持つ宮びた八幡橋が見えてくる。八幡橋の対岸にはこんもり樹林で覆われている。橋を渡るとすぐ左手に参道がある。そこが目指す鎌形の史跡の一つ鎌形八幡神社だ。延暦年間3-2.jpg(782~805)蝦夷征討で知られる征夷大将軍坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡をこの地に勧請したことに始まると伝える。また鎌形八幡は木曾義仲ゆかりの神社でもあり、義仲と父義賢、嫡男清水冠者義高の源氏三代の伝説が多く、源氏の氏神として仰がれてきた。木曾義仲の生誕地は神社のすぐ西隣にある木曾殿館跡と言われる。鬱蒼とした雑木林で昼なお暗い参道に入るとすぐ直角に折れる。そこに大きな石の鳥居があり、その先10mの所に二つ目の鳥居がある。次いで山門をくぐると広い境内3-3.jpg地で、その先に二十数段の石段があり、上がりつめた所に社殿が建っている。また石段下右手に手水舎があり、水はハケの石垣からの清水が竹の樋を伝って注がれている。その傍らに「木曾義仲産湯清水」と刻まれた自然石の碑が立っている。伝説によればこの手水舎の清水が産湯に使われたという。ここ鎌形で生まれた義仲がなぜ木曾武士として成長したのかは次のような背景がある。すなわち鎌形は大蔵に住していた父の源義賢の下屋敷で、義仲はここで仁平3年(1153)父義賢と母小枝御前との間に二男として生まれた。幼名を駒王丸といった。しかし久寿2年(1155)父義賢が甥の源義平に大蔵館を急襲され殺害されると、駒王丸は畠山重忠の父重能、及び乳母の義兄の斎藤別当実盛に守られて碓井峠を越えて信濃国権守中原兼遠の元、木曽へ落ちのびた。こうして駒王丸はそこで木曽次郎義仲として成長した。成人すると源氏一門として頼朝の旗揚げに呼応し、いち早く平氏追討に立ち上がり、京に攻め入って朝廷から朝日将軍の称号を得た。しかし源氏の頭領の地位をめぐる頼朝との確執から、遂には琵琶湖畔の粟津ヶ原で非業の死を遂げている。
3-4.jpg 続いて鎌形八幡のすぐ西隣にある班渓寺へ向かう。元の八幡橋の袂に出る。一段とローカルな雰囲気となった都幾川左岸の堤を更に上流へ向かう。程なく川面に堰が現れ、その傍らに魚道が設けられている。なんとものどかな景観だ。川筋はゆったりと右へカーブしてゆく。やがて川沿いに広がる細長い緑地公園が現れる。「歴史の里公園」と呼ぶが、特にベンチとトイレがある以外何もない。ただ緑溢れる景観はなかなかのもので、弁当を広げるには都合のいい所だ。公園の横を通り過ぎると前3-5.jpg方に一際鮮やかな擬宝珠のついた優美な赤い橋が見えてくる。班渓寺橋という。その橋の袂に来ると、橋の北側すぐの所に通りに沿って班渓寺がある。手前に何の囲いもない小さな墓苑があり、その向こうに正面入口と本堂が見える。曹洞宗の寺で山号を威徳山と号す。狭い境内のささやかな寺だ。入口には「木曾義仲公誕生之地」と記した石碑が立っている。 義仲はここで駒王丸として誕生した。墓苑の中ほどには嫡男義高を弔うために班渓寺を建てたという義仲の内室山吹姫の墓がある。山吹姫は木曽育ちの娘で、義仲の室となって嫡男義高(高寿丸)を生んだ。義高は大蔵で育ち、清水を汲んで産湯としたことから清水冠者義高、または志水冠者義高と呼ばれた。
 清水冠者義高がなぜ非業の死を遂げたのか。源頼朝が石橋山で平氏追討の兵を挙げると義仲は源氏一門として旗揚げしたが、頼朝は猜疑心が強く、忠誠の証として3-2.jpgわずか6歳の義高を鎌倉に送った。形のうえでは頼朝と北条政子の間に生まれた娘大姫の婿としてではあったが実質的には人質であった。寿永3年(1164)義仲はいち早く京へ攻め入って平氏を追放し朝廷から朝日将軍の称号を得たが、人心を掌握できず京の治安は乱れ、逆に朝廷から頼朝に義仲討伐の命が発せられた。これを受けて頼朝が差し向けた義経軍により、近江国琵琶湖畔の粟津ヶ原で討たれた。義仲を失った山吹姫は難を逃れて義仲の故郷鎌形へ落ちのびた。一方鎌倉で人質となっていた義高は頼朝に殺害される運命となった。大姫はこれを知ると義高を女装させて鎌倉を脱出させた。義高は鎌倉街道上ノ道を一路故郷大蔵を目指して逃れたが、追手により入間河原で斬られた。義高を失った山吹姫は、義高の霊を弔うためこの地に班渓寺を建てたと伝えられる。(この項つづく)



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。