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海の見る夢 №29 [雑木林の四季]

                    海の見る夢
          -スクリャービンのエチュード(悲愴)-
                    澁澤京子

ウクライナ生まれホロヴィッツの演奏するスクリャービンのエチュード(悲愴)。もしもホロヴィッツが今のウクライナの状況を天上から眺めたら、こんな気持ちなんじゃないだろうか、と思ってしまう。

~ロシア人は爆弾を製造し続けています。合衆国だって、同じように爆弾を作り続ければ貧しくなるでしょう。ロシアではみんな怯えています。通りを歩いただけでそれがわかります・・~ウラディミール・ホロヴィッツ(1986年のモスクワ公演の後で)『ホロヴィッツの夕べ』D・デュバル

「日本も核武装を!」という声が高まっているけど、核って本当に抑止力になるんだろうか?銃規制のないアメリカで、時々、銃乱射事件が起こったり事故があるように、核も、攻撃的な人間の手に握られるリスクがあるし、また、情報の錯綜やミスによる事故がいつ起こってもおかしくはない。軍需産業がなくならない限り、戦争はなくならないという事を考えても、ひょっとすると核による抑止が幻想になる時代がやって来るかもしれないではないか。(考えたくないが)ロシアのウクライナ侵攻以来、そういう危機感を持つようになってしまった、

戦争はおそらく人の弱さから起こるのだと思う。誰でもミスをするし、思い込みや偏見を持つが、自分は正しいと思ってしまう。しかも、理性もそれほど頼りにならないのであって、人は他人の間違いはよく見えても自分の事には大概盲目となる。今のプーチンの行動は、激しい思い込みによる暴走じゃなくてなんだろう?

と、ここまで書いていたら、今日の東大入学式での河瀬直美さん(映画監督)のスピーチが大学関係者に波紋を呼んでいるというニュースが。

問題になっているのはこのスピーチらしい。

「例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」~河瀬直美氏

河瀬直美氏に対する反論。

「侵略を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう」東京大学・池内恵教授
あと、複数の大学教授の非難も似たようなものばかりなので割愛する。

もちろん、侵略戦争は悪に決まっているが、河瀬氏のスピーチは、「どっちもどっち」とか、今のロシアのやっている残虐非道を擁護しているものではなく、(今のこの状況で、ロシアを悪として糾弾したところで私たちにいったい何が解決できるんだろうか?)という事を、ごくふつうの一般市民として言いたかったのでは?さらに、「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」と述べていて、戦争がなぜ起こるかを根本的に考えてほしいと学生に向かって促している。河瀬直美氏の「(悪)を存在させることで、私は安心していないだろうか?」の発言の裏には、NATOとアメリカとロシアの関係といきさつ、そして、かつてアメリカがイラクを悪の枢軸国と決めつけ、でっち上げの口実から始まったイラク戦争も念頭にあったんじゃないかと思う。「侵略戦争は悪」と国際法の是非を言うのであれば、ウクライナ侵攻では自民党はこぞってウクライナ侵攻を「戦争犯罪」と糾弾しているが、かつて、日本も加担したイラク戦争も国際法違反。「戦争犯罪」に加担したとして反省した政治家っていただろうか?

また、何か自分の外部にあるものを悪として非難・糾弾することが、正義であるかのように安心するのは危険であるという事を述べている。自分の外部に悪を設定して「自分は正しい」とするのは、政治的な常套手段であるが、プーチンもまったく同じ事をしているのである。私たちがいくらプーチンを糾弾しても無力なのであって、むしろ、彼女は戦争の原因は私たちの中にも潜んでいるんじゃないか、という事を問題提起したかったんじゃないかと思う。

もちろん、やり場のない怒りでイライラしている人が多いのはとてもわかるし、そこであの反論があったのだろう・・戦争の映像は人を傷つける。イラク戦争でも、イスラエルのパレスチナ攻撃の時も、ネットでリアルに配信される悲惨な映像に、私はやり場のない怒りとストレスをためたし、今はウクライナ侵攻の悲惨な映像を見て、やりきれないのである。

芸術家というのは、絶えず自己の内面に向かっていくが、河瀬直美さんはウクライナ侵攻を見ておそらく内省的になったのだと思う。人間そのものが変わらない限り、戦争は決してなくならない・・ウクライナ侵攻で見られる人間の残酷と悲惨は私たち人間の姿ではないか。

ゼレンスキー大統領はグラミー賞でのズーム演説で「戦争の対極にあるのは音楽だ」と述べた。バッハの対位法を聴くと、まるで違う意見を持つ人同士が議論しているようで、音楽では異質な組み合わせがむしろ生き生きと輝き美しい。御互いが対等で誠意さえあれば、たとえ、意見がぶつかっても調和するのに。

コロナ、不況、ウクライナ侵攻と続いて、心の余裕を失っている私たちは今、とても危険な状況にあると思う。心のゆとりをなくせば、私たちはホロヴィッツの言う「貧しい人間」になってしまう。要するに、「貧しさ」とは、精神というもの、個性、心のゆとりや美意識というものを持たない画一化された人間のことなのである。

最後のロマン派と言われたホロヴィッツが、革命後のソ連にも、移住した先のニューヨークにも、時代の変遷にもなじめなかったのはよくわかる。ロマン主義で重要なのは「個人・個性」や「優雅・回顧」だからだ。ホワイトハウスに招かれて演奏したホロヴィッツにとって政治家とはただの「音楽のわからない人々」でしかない。芸術も宗教も、政治的に利用されればロクなことにならないので、芸術家も宗教家も、政治批判できるように距離を置くのがいいのではないだろうか。かつて、ロマン主義はドイツでも日本でも政治に利用されたが、ロマン主義の「個人・個性」「自律」に重点を置くところはむしろファシズムとは対極にあるのだ。

85歳になったホロヴィッツは「人生は短すぎる」と言ったという。国家・権力ではなく、芸術という永遠を前にした時だけ、彼は絶えず自身をちっぽけな人間に感じ敬虔であったのだろう・・


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