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梟翁夜話 №109 [雑木林の四季]

「弘くん、学校行こ」

      翻訳家  島村泰治

どうやら私は、幼い頃から群れを好まぬ質だったやうだ。南六郷で過ごした九歳までの日々、連(つる)んで遊んだともだちをさほど覚えてゐない。ヤンと云ふ名の大将格の年長の子やそいつに連む二、三のこどもたちがゐたにはゐたが、どの家の誰ともいまは思ひ出せない。それでも、近所の道筋や店の佇まいは結構覚えてゐるから、どうやらひとり歩きを手広くしてをったやうだ。
少ないともだちのひとりが右隣りの中嶋さんの弘くんで同い年、出雲国民学校の同級生だったはずだが級が違ったのか机を並べた記憶がない。
「ひーろしくん、がっ・こい・こ」
登校時などは、玄関先でさう言って私が彼を誘った。六拍で刻むリズミカルな呼び掛けは粋な旋律に聞こえた。「は・あ・い」と応へるのは大抵お姉さんの艶(つや)ちゃん、ややあって弘くんは背中を押されて玄関から出て来たものだ。艶ちゃんが艶子かお艶かは知らない。母が日頃からさう呼んでゐたからで、自分が面と向かってどう呼んだかもとんと記憶がない。
弘くんは控えめの子どもで、家の中にゐることが多く、近所の遊び仲間とも馴染まず連んで遊ぶことはなかった。私は艶ちゃんに乞はれて中嶋さんちに行き、弘くんの遊び相手を務めた。遊びとは言へその頃流行りのべーゴマをするでもなく、メンコに興じることもなかった。そもそもそんな遊具は中嶋さんちにはなかった。大抵は幼年倶楽部の読みっこか紙飛行機作りで、宿題のある時は机に向き合って無言で勉強することもあった。
同い年ながら時代感覚に違ひがあったやうで、飛行機や戦艦の話を仕掛けても乗ってこないのが、子どもながら少国民然としてゐた私には弘くんが食ひ足りなかったのを覚えてゐる。お姉さんの艶ちゃんは明るいのに、どうしてだらう。学級にも似たやうな子がゐたから、弘くんもそんなだらうと思ふことにした。
二年生頃のこと、弘くんとのそんな時間がある日突如途絶えた。
弘くんちにはお婆ちゃんがゐた。子どもの目には年恰好は分からないが、白髪混じりの髪を結ひ上げ、ゆらゆらと歩く姿が目に浮かぶ。外出をしないのだらう、日に焼けたことのない白っぽい皺肌(しわはだ)だった。いつも艶ちゃんが寄り添ってなにくれとなく世話をしてをり、親孝行なお姉ちゃんだなとの印象があった。
ある日、そのお婆ちゃんが騒動を起こし、それを切っ掛けに私は弘くんちに行くことが無くなった。何曜日だったか、真昼時に家にゐたのだから土曜か日曜だったらう、私はたまたま玄関先の掃除か何かしてゐた時、弘くんちの家の中で女の人の金切り声が上がった。
「お婆ちゃん!何してんの、お婆ちゃん!」
艶ちゃんの声だ。何かが起こってゐる。私は家に入り母を呼んだ。これこれと様子を告げると、只事でないと察した母は、小走りに弘くんちへ。玄関を開けるや、どうしたのと声を掛けて上がり込んだ。艶ちゃんと母の声が交錯して様子が定かでないが、言葉尻からお婆ちゃんが便所でひと騒動起こしたらしい。
金隠しから入って座り込んじゃったのよおばさん、と半泣きの艶ちゃんの声。
どうやらお婆ちゃんが尋常じゃない。子どもながら私は咄嗟に気づいた。いつものふらついた歩きかたや、付かず離れずに気を配る艶ちゃんの様子、弘くんの言葉少なさと控へめな態度など、あれもこれもがお婆ちゃんの只事じゃない振る舞ひに繋がってゐるやうに思えたのだ。弘くんちは家中がお婆ちゃんを気遣ってゐるんだ、だから弘くんはああなんだ、可哀想だな、思った。
騒動が収まって帰宅した母の話から、お婆ちゃんの精神異常は近所でも周知なことを初めて知った。母は艶ちゃんの気遣ひが痛々しいと云い、それを聞いて私は艶ちゃんがときに殊更に明るく振る舞ふ事情を読み取った。事情を呑み込むや、母は日頃の手際を発揮してお婆ちゃんを抱え込み、艶ちゃんを励まして汚れを拭いてことは収まった、と。
弘くんの気まずさと恥ずかしさは如何ばかりだったか。私は弘くんに掛ける言葉が見つからぬまま、ふたりの間に隙間が生まれた。子どもは子ども、互いにその隙間を埋める手立ても見つからずに、弘くんと私は自然と遠ざかった。登校の誘ひもしなくなり、一緒に勉強することも無くなった。艶ちゃんはあれこれ口を聞いてくれても、幼い私は弘くんはどうと聞く才覚もなく、これも縁遠くなった。大人同士の隣付き合ひには何の変わりもなく、母はむしろその後中嶋さんへの関わりが増えたやうな様子が、子どもの私には不可解としか見えなかった。
南六郷には国民学校の三年までで、戦中の最中、慌ただしく埼玉の母の実家に引っ越したから、その後の弘くんのことは知らない。お婆ちゃん事件を最後に、弘くんちの記憶はぽつんと切れてゐる。今はもう弘くんの面影も薄れて、瞑目しても姿を思ひ描けない。了


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