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海の見る夢 №24 [雑木林の四季]

                  海の見る夢
          -樹の曲―
                澁澤京子

 子供の時、祖父の家に遊びに行くと必ず挨拶?に行ったのが、庭にある欅の大木と、百日紅の樹だった。欅のほうは、落ち着いた大人と言う感じがしたし、百日紅のほうは、愉快な叔父さんという感じで、この二本の樹は、きっと子供が好きに違いないと思っていた。(単に子供がよじ登りやすい樹だっただけ。)黙って子供の遊び相手をしてくれる樹、どんなに寒くても、雨が降っても雪が降ってもじっと耐えている樹、人間によって切り倒されてもじっと沈黙したまま耐える樹。子供心にも、樹木というのは人間に比べるとなんて気高いのだろう、と思っていた。

ある冬の夕方、寒くなったので庭で遊ぶのをやめて、祖父の書斎の窓から暗い庭を見ているうちに、私と樹木の間には、この窓ガラスのような透明なへだたりがあることに気が付いた。人間は家の中で、風や雨から自分を保護しないと生きていけない・・その時、急に自然から拒絶されたような、疎外感のようなものを感じたのを覚えている。

昔、不思議な夢を見た。うっそうとした薄暗い森を歩いていると、大きな木がある。太い幹には、木を組み合わせた十字架のような、ナチスの鍵十字のような不気味なものが刺さっている。なぜか私は、その木をできるだけ高く登らないといけない使命を背負っている・・高い木を登る夢を二晩ほど連続して見て、この夢を見た頃から、我が家は傾き経済的に破綻したり、次々とトラブルがあったのでなんとなく不吉な夢と思っていた。ところがある時、ネットを見ていたら、夢に出てきた不気味な十字架と同じものを見つけて驚いた。聖ブリギットの十字架という変わった形の十字架で、キリスト教以前からある、アイルランドの土着的な信仰のものらしい。もともとは火と再生をつかさどるケルトの古い女神でブリギットはカバノキをさすらしい・・あまりに不思議な偶然の一致だったので、思わず、銀で出来たアイルランド製の聖ブリジットの十字架をネットで買って、今もペンダントとして身に着けている。

シベリアシャーマンには、イニシエーションとしてカバノキによじ登っていくというのがあるらしい(白樺とかダケカンバは大人がよじ登れるほど太いものはものを見たことがないが)カバノキの精霊に召命されたシャーマンは人を救済する役目を持ち、様々な試練に
打ち勝たないとならないという。参照『世界樹木神話』J・ブロス

東大寺二月堂の「お水取り」を観に行ったのが、母との最後の旅行になった。「お水取り」は二月から十四日間にわたって行われる。アイルランドの聖ブリギット祭も二月から二十日間にわたって行われる。二十日間の間、修道女たちによって火が絶えないように守られる。聖ブリギット祭と同じく、「お水取り」も懺悔(贖罪)が中心だが、仏教以外の様々な土着信仰も混じっていて、752年から一度も途絶えることなく続く行事。「お水取り」のクライマックスである、籠松明は夜から始まる。裸足で走る若いお坊さんたちの掲げる松明から、見物しているこちらのほうにも火の粉が飛んできてすごい迫力だった。「お水取り」の最後に汲まれるのが聖水で、「お水取り」が終わると春が始まる。「お水取り」の行事は、ケルトの土着文化とキリスト教の交じり合った聖ブリギット祭にとても似ている。どちらも春を呼ぶための再生の儀式で、「火」が贖罪、浄化の重要な役目を負っている・・

「お水取り」を見た翌日、母と春日神社の参道をゆっくりと歩いた。参道の両脇には立派な大木が連なっていて、心臓が悪くてあまり歩けなかった母は、大きな樹に手をあててじっと目を瞑っていた。

日本には、各地にご神木があり、神社や寺には立な樹が保存されているので誰でも気軽に巨木を観に行くことができる。今年のお正月は鎌倉の建長寺のビャクシンの大木を観に行った。(会いに行ったという感じ)大木は、近くにいる人の気持ちを静かにさせる力を持っていると思う。ビャクシンはなぜか禅寺に植えられている樹らしい。

古代、樹木信仰はアジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸にも世界中にあった。『木々の恵み』フレッド・ハーゲネーダー著によると、世界樹「命の樹」は(すべてはお互いに関係しあって神聖である)という意味を持つのだそうだ。樹木が地下の根でつながっているところからすべてはつながっている、ということなのだろう。私たち人間も無意識の底で、地下茎のようにすべてつながっているのじゃないだろうか。

また、ゲルマン系の樹木を表す言葉から「智慧」「知識」「魔女」「ウィット」などの言葉が派生したらしい、キツネの書いた葉っぱのお手紙のように、葉はまさにアルファベットであり言葉であったのだ。(ヴェーダ聖典はカバノキの皮に書かれていた)
そして、聖書ではアダムのリンゴは知恵の実(本当はイチジクという説も。イチジクは聖書にたくさん出てくる)で、やはり樹木と関係がある。

坐禅をしていると、時々人は、樹木と呼吸をあわせるためにこうしてじっと坐っているんじゃないか?と考えることがある。ブッダも悟りを得たのは菩提樹の下。菩提樹はブッダが悟りを得たために「悟りの樹」と呼ばれるけど(ヒンドゥ教では菩提樹はブラフマン)、宗教以前、樹木と人間の間には、私たちの知らないもっと深いつながりがあったような気がしてならない。今、私たちは樹木を利用しているけど、もともと樹木の方が人間の「師」だったんじゃないだろうか。長い間、人の愚かさも哀しみも歓びも、黙ってじっと見つめ続けてきた樹木。

今年は、この家を処分して他に移らないといけない。家の処分より、庭にある欅の樹との別れの方が私にはつらい。いつも窓から見ているせいか、なんだか古くからの知り合いのような感じだ。夏は見上げるとまるで森の様だし、様々な野鳥が遊びに来る。(カラスも来るが)今は葉を落としていて、曇り空を背景にした、繊細な欅の枝のシルエットが、まるで視覚化された音楽のようなのである。

タイトルの「樹の曲」は武満徹作曲のもので、私の見た、不思議な樹木の夢の雰囲気にぴったりの曲。一度お目にかかったことのある武満徹さんは、人間というより樹木のようなひっそりとした雰囲気をお持ちの方だった。時々、カサッと枯葉が落ちる樹木のような静寂さ。きっと、樹の事がよくわかる、高度な感受性と知性を持った人だったのに違いないと思っている。


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