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道つづく №27 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

逃げ水(4)

        鈴木闊郎 

 昭和十九年(一九四四)三月、わたしは富士見町の第三国民学校に入学した。ちなみにその後、校名は立川市富士見国民学校、立川市立富士見小学校、そして現在の立川市立第四小学校へと変遷している。卒業時の昭和二十五年三月は、立川市富士見小学校であった。
 当時、我が家は十人家族であったが、父の意向で四軒に分散して生活していた。現在の家には父が一人住まい、甲州街道沿い(現国立市谷保祖母の妹の嫁ぎ先)の農家に祖父、母、長姉、次姉、弟(当時三歳)、田中町(現昭島市祖母の妹宅)の農家にすぐ上の姉とわたし、福生町志茂(現福生市志茂父の妹の嫁ぎ先)に祖母、妹がそれぞれ厄介になった。疎開とはいうものの、遠方への縁故疎開という感覚はなく、ほとんど隣町ばかりである。父にしてみれば、一発の爆弾で家族全滅を避けようとしたものであったろうか。わたしは小学校の二年生になって間もないころであった。
 わたしと姉がご厄介になったお宅は、多摩川の崖線に面しており、その先は川向こうまで田圃が広がっていた。当家は近郷きっての篤農家であり、食糧事情などに苦労した経験はほとんどなかった。ご主人は無口で、あまり話をした覚えがない。当時出征中のご主人の弟さん一家の面倒もみて十五名ほどの大所帯であったが、差別をされるとか、叱られたおぼえもなかったし、まことに幸せであったといえよう。
 学校は、奥多摩街道をまたいでいる八高線のガードのすぐ左手にある「成隣小学校」に通った。学校への道すがら左側に長屋門のある立派な屋敷があった。のちになって父親から、著名な書家であり蒙刻家の中村半左衛門氏のお宅であることを聞いた。立川の富士銀行の正面に、中村先生作による色彩鮮やかな大きな富士山の絵が掲げられていたのを記憶している。
 同級生に畳屋のキー坊という生意気で、嫌なヤツがいた。特別暴力を振るうことは無かったが、やることなすことが陰険なのである。ランドセルから教科書やノート、筆箱がなくなる。弁当が消えうせる。犯人の見当はついていたが、証拠が無い。あるとき、叔父から貰った大事なナイフを、キー坊がカバンから持ち出している現場を発見した。これを見逃しては男の一分がたたぬ。放課後、学校の崖下にキー坊を呼び出した。勝負はあっけなかった。わたしは左手でキー坊の頭を押さえつけて、右手で相手の鼻っ柱を四、五回殴りつけた。キー坊は鼻血を吹き出してうずくまってしまった。子供の喧嘩はそれまでである。わたしは大いに溜飲を下げた。
 キー坊のことを思い出すとき、いつもマッチヤンという女子生徒を思い出す。マッチヤンは何くれとなくわたしをかばってくれた子であった。松本なのか松子という名であったのかまったく記憶にない。その後マッチヤンに会って、礼の一つも言いたいと、ときおり思うのだが、記憶があまりに茫漠としていまだにその機会を失ったままである。
    平成二十三年(二〇一一)夏
            「the SOUND of Oldies in TACHIKAWA vol4」より

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