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雑記帳2021-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-12-15
◆新装なった京都市京セラ美術館で、開館1周年記念の「モダン建築の京都」展がひらかれています。会場には厳選された36の建物が写真や物語と共に紹介されています。

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モダン建築の京都展のポスターは、賀茂川を真中に京都の町を鳥瞰するデザイン

震災や戦災による被害が殆どなかった京都には、明治から、大正、昭和にかけて建てられた洋風建築や近代和風建築、モダニズム建築などのモダン建築がが今も数多く残っています。京都は、建物を巡りながら日本の近代化の過程を肌で案じることができる町だと言われているのです。

京セラ美術館の前身、京都市美術館も昭和のモダン建築です。昭和天皇即位を記念して建てられた京都市美術館は、国の威信をかけて建てられ、今のお金にして100億円の寄付が集まったそうです。ドイツ新古典主義の洋風建築に銅板瓦ぶきの屋根を載せた帝冠様式は、ライトの帝国ホテルの影響が見られ、上野の国立博物館本館も同じ様式です。

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京都市京セラ美術館外観
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建物内部も見どころいっぱい

周辺には平安神宮や府立図書館があり、それぞれ明治、大正時代の建物です。ここに立てば明治、大正、昭和が一度に体験できる場所になっているのです。平安神宮、府立図書館の設計者はいずれも伊東忠太。

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府立図書館

京都の町づくりに伊東忠太を忘れることはできません。
明治になって首都が東京に移り、衰退した京都の町の復興のために市が頼ったのが、帝国大学を卒業したばかりの伊東忠太でした。彼の平安神宮は、同じころ造られた琵琶湖疎水とともに、近代化をすすめる京都の、今の形を作る基になりました。
辰野金吾に学んだ伊東は、当時「造家」と呼んでいたarchikectureを「建築」と改めたり、誰もが知る築地本願時や東京都慰霊堂などをはじめ、明治から昭和初期にかけて数多くの作品を残しています。

師の辰野金吾ら、ジョサイア・コンドル門下の建築家たちは、西洋の建築を学んだ第一期生として、国威としての建築を造りました。対して、それから4代目に当たる伊東忠太は日本独自の建築をあみだそうとしました。忠太の卒論は、法隆寺のの柱はパルテノン神殿のエンタシスの柱がシルクロードを経て日本にたどり着いたのだというものでした。それは、地理的な面からも、日本がすべての文化が落ちる所という信念に基づくものでした。面白いことに、パルテノン神殿の柱はもとは木造だったのだそうです。忠太の説は学会では長く無視されていましたが、和辻哲郎の「古寺巡礼」は彼の説を引くものでした。
「建築は進化する」というのも彼の信条でした。

その伊東忠太の作品の一つ、「大雲院祇園閣」を見学することができました。

祇園閣 のコピー.jpg大雲院は京都府京都市東山区に、織田信長、織田信忠父子の供養のために創建された寺です。そこに、昭和3年、ホテルオークラの創始者、大倉喜八郎の建てた別邸の一部が祇園閣です。緑色の屋根が目をひく塔は、祇園祭の山鉾を模して建てた3階建ての建物で、国の登録有形文化財に指定されています。内部壁面には敦煌の壁画の模写が奉納されていましたが、撮影禁止。閣上から一望できる東山一帯の風景も、残念ながら撮影することができませんでした。

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屋根に祇園祭の山鉾を載せた祇園閣(右上の写真はその頭頂部)

祇園閣の正面の左右に坐る狛犬は、曲線も愛らしく、西洋の獅子像やスフィンクスの姿もかさねあわされています。玉を抱える照明器具の妖怪は、案内人の京セラ美術館学芸員の前田さんによると、江戸時代の寺社彫刻のようでもあり、ゴシック建築のゴーガイルのようでもあるとか。階段を上りきったところにある天井装飾は、ロマネスク建築やインド建築に見られる、生命力にあふれた彫刻をほうふつとさせました。忠太の世界各地の見聞を交えて、京の遊び心に近代的な贅沢を加えたのだということです。ちなみに前田さんは今回の「モダン建築の京都」を企画推進したおひとりです。

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愛くるしい狛犬

鴨川に架かる四条大橋東詰めに日本最古の劇場である南座が建っています。
桃山風デザインの建物は大正時代の建築。このほど改修工事を終えました。

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南座

対岸にあるのがちょうど同じころに建てられた「東華菜館」です。建てられた当初は「矢尾政」というビア・レストランでした。戦時中、洋食レストランの存続が許されなくなった時に、店は中国人に託され、今は北京料理のレストランになっています。日本最古のエレベーターのある「東華菜館」でお昼をいただきました。

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前菜
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鶏肉の紹興酒の香付け揚げ
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水餃子

「東華菜館」は外壁にテラコッタを用いたスパニッシュ・バロックの様式で建てられています。設計したのはウイリアム・ヴォ―リス。
ヴォ―リスは宣教師として来日しましたが、建築師、実業家としても広く活躍しました。日本に帰化して、ウイリアム・メレル・ヴォ―リスのメレルを米来留にあてるなど、しゃれっ気もある人でした。
ヴォーリスの起こした近江兄弟社のメンソレータムは日本中で愛されたほか、建築士としては、日本各地に学校や教会、百貨店など数多く手がけました。中でも岡山駅舎や富郷小学校はよく知られています。

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四条大橋から見た東華菜館

昼食後訪れたのは山科にある「栗原邸」です。緑豊かな敷地のすぐ裏には琵琶湖疎水が流れています。
本野清吾の設計による昭和初期の建物は、当初は「鶴巻邸」と呼ばれていました。施主の鶴巻鶴一は、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長を務めた染色の専門家でした。平安時代に途絶えていた「ろうけつ染め」を復活させた人です。家具調度類や食器もデザインし、客間と食堂を仕切る建具には自身の手で獅子と桜を描いています。

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栗原邸(3階の雨戸にはペンキのあともなまなましい)

邸はコンクリートブロックを採用した鉄筋コンクリート造りで、左右対称を貴重とした外観は落ち着いた雰囲気を漂わせています。南側の中央にある玄関ポーチには2本の丸柱が建っていて、西洋構造建築のような壁面と合わせて、古典的なデザインを強調しています。戦後の一時期、進駐軍に接収されて、内部はかなり米軍好みに塗り替えられたこともありました。今は無人の空き家状態になっているので荒れた感じはありますが、案内してくれた京都工繊大の助教、笠原さんは、なんとしてもこの家を保存したいと、時間を見つけては仲間と手入れにはげんでいます。今は手の回らない庭も、手を入れれば見違えるようになるだろうと言い、この家に住んでほしいと、現在買い手を募集中とのことでした。ちなみに疎水の流れる裏山も含めて売り値は2億円だそうです。

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玄関ポーチ
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お洒落なガラス窓の居間
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ろうけつ染めを復活させた鶴巻は家具や食器もデザインした。

夕方、新幹線の出発時間を気にしながら、小さな商店街を抜けて30分ほど歩きました。
通り沿いには今も現役の郵便局や銀行があります。京都では市役所や府庁舎もも建築当時のものが使われているのです。持ち主が変わってショップやホテルに利用されているモダン建築をたくさん見つけました。日本銀行京都支店は、京都文化博物館になっていました。おなじみの辰野金吾の作品が、今、市民の作品の展示なども出来る、コミュニテイセンターのような機能を持つ場所にもなっているのです。

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京都市役所
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京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)
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銀行の窓口もそのまま残っている。

建物の保存は、それ自身の持つ空間と、そこに住んだ人が紡いできた時間の、両方を保存することだと前田さんは言います。京都はまさに生きた建築博物館。古い建物が名前を変えたりカフェやホテルに変わりながら、住み継がれて行く京都の奥深さを感じさせる旅でした。


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