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海の見る夢 №17 [雑木林の四季]

            海の見る夢
      -テテ・モントリューを聴きながらー
                  澁澤京子

 最近、気持ちがもやもやするとよく聴くのがテテ・モントリューの『ジャイアント・ステップス』。このスペインのジャズピアニストのことは友人に教えてもらったのだけど、聴くと気持ちがスカッとして浄化作用がある。憂鬱な感じを吹き飛ばしてくれるのだ。この切れの良さとスピード感はラテン系独特のものかもしれない、切れの良さはフラメンコギターのパコ・デ・ルシアにもある、ピアソラにもあるし、キューバのクラシック作曲家、エルネスト・レクオーナのピアノ曲にもあるものだ・・ラテン系独特の感情の激しさ(可聴化されたヒッグス粒子の音楽を聴いたとき、レクオーナのピアノ曲にすごく似ていると思った、あのリズムで粒子と粒子がつながると考えると実に面白い)

キリコの絵のように光と影のコントラストがはっきり・くっきりしているのが好きだ。私の母は喜怒哀楽が激しくて我儘な人だったけど、正直で陰険さはなかった。
私がまだ学生だったと思う。内容はよく覚えてないが、私が何か醒めたような利口ぶったことを母に言ったのだろう、「夢中でぶつかっていかない、あなたのような醒めた態度が人間として一番薄汚い。」という事を言われてすごく叱られたことがあった。母は何事も夢中になって全身全霊で取り組むような人が好きだった。母の言う事はもっともで、人が何かに全身全霊で取り組んでいる時はとても清らかなのだ。

「もっと自由に放浪するような生活をしたかった」と言うのが母の口癖で、家にじっとしているのが苦痛な性格だった。安全と堅実より、不安定でも自由を愛する人だったのだ。母は時々自分に正直ではなく、すごくつまらない世間体にこだわったり、とりつくろうところもあった。しかし、人間として一番美しいのは自分に正直で自由であるということを、母から教わったような気がする。

レトリックやテクニックだけでは、決して人を動かすことはできない。人を動かすことができるのは「心」だけなのであって、難しいのは、誰でもすんなり「心」を伝えられるわけじゃないということ。昔から芸術家たちが「心」を直接伝えるためにどんなに苦労してきたことか・・フェルナンド・ペソア(ポルトガルの詩人)が「・・自分の感情をそのまま伝えることができるのが一流の詩人・・」と言っているけど、その通りなんだと思う。上手く表現しようといった自意識や不純物が混じるとどうしても「感情を感じている(ふり)」になってしまうからだ・・


悪口・罵倒は感情がそのまま出てくるので逆に、その人の品性、性格、教養・文化までわかってしまうことがある・・どんなに気取っても悪口によって品性の低さが暴露されたり、その人の性格・知性がにじみ出てきてしまうので、悪口(陰口も含む)と罵倒はたいてい後味が悪く、人に不快感を与えるものが多い。そうした悪口と罵倒でも全身全霊を込めて相手と本気で対等に対峙されたものは、不思議と切れがよく爽やかなのである。変な差別意識など自意識が混じらないからだろう。

チリの詩人、パブロ・ネルーダは悪口・罵倒をそのまま詩に書いた。

ずいぶん前に渋谷のユーロスペースで『チリの闘い』という長いドキュメンタリー映画を観た。社会主義であるアジェンデ政権が、CIAの支援を受けたピノチェトによって、崩壊する過程を描いたドキュメンタリー。アメリカはチリに経済封鎖をしかけ、CIAは経済的に困窮している民衆をお金で買収したり、プロパガンダをばらまくなど、圧倒的に民衆の支持を得ていたアジェンデ政権を崩壊させるため、ありとあらゆる手段を使い、アジェンデ政権を支持していたネルーダは、イタリア南部の離島に亡命する。
追い詰められたアジェンデは自決(殺害されたとも言われている)。

この映画を観終わってから、社会主義、資本主義というイデオロギー以前に、「相手を貶めてつぶすために、ここまで卑劣で汚いやり方を使うなんて・・」と唖然とした記憶がある。アジェンデ政権は選挙によって選ばれた正当な政権で、アジェンデがきわめて優秀で真っ当な人物だけに、その理不尽に何とも言えないやるせない気分になった。

「腹黒い奴ら」

ニクソンとフレイ(アジェンデ政権の悪口プロパガンダを吹聴)とピノチェトめ
今日、この1973年9月の何という酷さ(アジェンデが自死したのが9月11日)
おお 貪欲なハイエナども
多くの血と火で勝ち取った旗をかじりとるネズミども・・(1973・9・15絶筆)『ネルーダ・最後の詩集』

このあと延々と罵倒が続くが、これがネルーダの絶筆となった。(ネルーダの死も他殺という噂があるが真偽はわからない)ネルーダの『最後の詩集』を読むと、詩人の直観で当時の政治状況をかなり的確に把握していたのがよくわかる。
ニクソン政権とCIAが正義の仮面をかぶって、どんなに人として狡猾、卑劣なやり方でアジェンデ政権をつぶしたのかドキュメンタリーを見て知っていると、このネルーダの激しい怒りと絶望にはとても共感できるのだ。

ネルーダの激しい怒りは人の心を打つ。彼はペソアのいう「一流の詩人」だったのだ。SNSや暇人の普通の悪口の醜悪なのに比べると、美しささえ感じるのである。率直で純粋な心から出ると、怒りさえも清らかなのだろう。

ネルーダには『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』という有名な恋愛詩がある。彼がどんなに情熱的に恋人(主に彼が失恋した初恋の相手)を愛したか、どんなに彼女を喪失して苦しんだかが率直につづられているので、今でも読み継がれている。

昔、読んだときは、こんなにネルーダに情熱的に愛された恋人ってなんて幸福な人だろうと思ったけど、最近は愛される人間よりも、むしろ愛する人の方がずっと幸福なのだ、という事にやっと気が付いた。愛する人は同時に苦しむ人でもあるけど、人間としてみるとその方がずっと幸福なのだ。

自分に正直であるのも、心を伝えるのも実際はとても難しい。ネルーダの詩を読むと、どんなに自分の心が汚れてしまったかということに気が付いて、時折、自分を恥じるのである。純粋さは、とても稀有なものなのだ。




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