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梟翁夜話 №97 [雑木林の四季]

「コケコッ考」

        翻訳家  島村泰治

わが庵には鶏が群れている。この夏に仕込んだ雛(ひよこ)たちが中雛に育って、しめて二十羽余の雌鶏たちが元気に群れている。姉鶏たちは三々五々卵を産み、中雛たちも早晩産み始めるだろうから、わが庵は如何にも愉しき卵の里だ。

その群れの頂点に我が物顔に振る舞う雄鶏が一羽、名はピー太、これがなかなかの奴で一稿に値する代物なのだ。そこで、ひとつ話題を変えてひとしきり鶏話しをお聞きいただきたいが如何?卵も生まずひたすら鬨の声を挙げるだけの雄鶏に何の取り柄があろうやと訝られようが、さて、それが意外や意外、われらが日々の生活にしっかり入り込んで、悲喜交々の影響があるのが妙だ。

このピー太、実は嘗て相棒と云ふかライバルがあって、此奴との生存競争を凌いで今日があるという、曰くつきの雄鶏なのだ。相棒はピー助、これが闘い上手で一騎打ちではこれが圧倒的に優勢で、哀れピー太は大方惨めに突き倒され、その都度尾羽を巻いて敗走していたものだ。しかし、雄鶏は二羽は要らぬと決まって淘汰されたのが、何と勝ち馬(?)のピー助!よかったと思ったかどうかは知らぬが、ピー太は運よく生き延びた。奴の命の恩人は他ならぬわが愚妻だ。

愚妻はわが庵の鶏奉行だ。雛の仕込みから餌やり、卵の処理管理などなど一切の仕事を引き受けて至極多忙だ。二羽の雄鶏のうち一羽を淘汰するにあたり、強いピー助を捨てて負け犬(?)のピー太を選んだ理由がなかなか奮っている。ハーレムの長は温和がいい、と。狼の群れなら逆の頑強が美徳だろうが、卵を産んでもらう雌鳥たちには、むしろ角の取れた雄鶏が似つかわしいとの論理だ。

こちらには何の異論もある筈がなく、奉行の意志が通ってピー太が命拾いをした。その恩義を感じてか、奴は見事にハーレムの長振りを発揮して、あれから四年、雄鶏らしく、餌を雌鳥たちに分け与えるなどの仕草を見せ、時折に飛び蹴りなどを披露しては雄鶏振りをひけらかす。男の目から見て、なかなかの存在感だ。

わが庵はごく田舎にある。嘗ては人家も間遠く人情も昔気質、犬が吠えようが太鼓を叩こうが苦情が出ることは無かった。昨今は新造の家屋が増え、前後も両隣もほどほどに詰まってきた。勢い余計な音は公害扱い、太鼓などは論外になった。犬さえ遠慮して飼う時代だから、雄鶏の鬨の声など苦情はおろか警察沙汰だ。
鶏奉行の愚妻は一計を案じ、夜になるとピー太を屋内に取り込むことを習慣にしている。廊下の隅にケージを仕込み、早朝四時前後に決まって挙げる鬨の声が寝室に届かぬように、タオルケットなどで防音を施す。群れから引き離される異常さにピー太も慣れ、我々も暫くは往生したけたたましさも、慣れれば乙な風物音にもなるもの。

昨年の春、そのピー太が何かの加減で足を痛めた。両足の付け根辺りに炎症が出て、歩行が不能になった。鶏小屋では昼間でも鬨の声も挙げず、悄然と蹲(うずくま)ることが多くなった。夜にケージに取り込まれても、身動きもままならず、鬨の声などとんでもない状態が続いた。鶏奉行の愚妻は滅法気に病んで、何やら薬を塗ったりさすったり、看病怠りなく面倒を見ていた。

年が明ける頃だったか、わが庵でピー太が時ならぬ鬨の声を挙げた。気付けば、足の具合いが気無しかよくなっている。大方片足ながら、時に悪い方の足を送る様子も見せるではないか。ケージの脇を通る時、元気な頃によく見せた嘴の突きも見せる風だ。どうやら足の具合いが快方へ向かっているらしい。

そのうち鬨の声の頻度が増える。こっちの話し声に反応して挙げるような様子。その辺りから、雄鶏の鬨の声に意味がありやなしや、不図、考えるようになった。死んだ健太(雑種犬)が生きている頃に、犬語が分かったような気がしたことがある。鳥よりも精緻な犬の感情表現には、接触の深浅によってドリトル先生の境地が分かる時があるものだ。身近にいるピー太のコケコッコウに、何やら陰影があるように思えるのはどうしたことか。どう聞いても鬨の声で、語りには思えぬ。健太のワンには表現のヒダがあった。

ピー太が「吠える」たびに、今まで警告乃至威嚇に聞こえたものが、いま何やら意味有り気に聞こえるのが面白い。足取りもしっかりして来ているから、まさかとは思うが、世話も看護もしていないこっちにも感謝の思いを伝えようとしているのか。それと読み解けぬのは不徳の限りだ。

ピー太は五歳とか、人なら何歳か知らぬが相当に老いてはをらう。年を重ねてみると、彼のコケコッコウにも老練の妙が顕れていても可笑しくはない。年の功の報いか、いよいよ乙な話である。


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