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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №57

「会いたい。絵のことも話したい」

    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 翌昭和五十年(一九七五)一月二十二日、伊藤武氏から電話で私に高島さんの伝言があり「会いたい。絵のことも話したい」とのこと。しかし聞けば高島さんの具合もよくない。私はひとりで行くべきだったのに、いざというときの自分だけの判断をあやぶみ、美術団体の会長職で多忙な大内田さんを引っ張り出すことになった。三日後の朝、氏と落ち合い、柏のアトリエを訪れ、高島老人が吊るしたり、左右に引っ張ったりしたひもに手をかけ、ひも伝いにやっと歩いているのを見た。
 私は画家を病院か施設に入れるのがよいと思い、その頃から有名な、板橋の老人センターに当たりをつけ、これも母の教会関係の女性にコンタクトをとってもらった。紹介された医師に電話するとなぜか入院を断られ、日誌に「甚だ不愉快、この上なし」とある。母によれば医師と助成の書簡のやりとりでトラブルが生じたためというが、仔細はいっさい忘れてしまった。
 四月、姉スエノが娘の国代に伴われて九州から野十郎に会いにきた。国代さんは叔父が久留米の温石温泉に行きたいと言うのを聞き、つれて行ってやりたかったと悔やんでいる。家業が栄えていた頃、父親がひと仕事終わると使用人や子供たちをつれて行った温石温泉の想い出が、野十郎には少年時代への郷愁でもあったろう。
 一方で高島さんは、その前年のことだが、秩父のどこかの寺の離れを借りて住みたいと言いだした。途中までは私の車で行けるが、そこから先一キロはどの道は両脇から画家を肩で支えて歩かねばならない。地図は画家のイメージのなかにあるのだろうか。そこへ辿りついて小屋借りの交渉をする。当時の道路事情では一日で往復できる計画ではなかった。私は考えあぐね、増尾駅に行く車内で大内田さんに相談したが、氏もそれはとても出来ない話だという。衰弱した老人を迎え入れる桃源郷があるとは私にも思えなかった。
 高島さんとしては代償に絵を寄進するつもりでいた。また社寺に絵を寄進するのが念願だと語っていたし、奥秩父のある社寺に寄進したとも聞いた。高島さんなりの考えがあったのかも知れない。野十郎の絵が秩父三十四ヶ所の巡礼地、社寺のどこかに眠っている可能性はある。
 当時、アトリエの画家をサポートするには人を欠かなかった。伊藤家の人びと、「女先生」の武藤夫妻、重喜さんが遣わしたヘルパーさん、武藤家のお手伝い岡部さん、田場川母娘、民生委員その他行政の人たちが、差し入れをするなど気を配っていた。しかし、それぞれ仕事をもっているので、毎日というわけにはいかない。その穴のあいた日が重なって、いつのまにか画家は歩くことすらままならず、アトリエを覗いてみな驚くのだった。
 まもなく高島さんの環境が安定したとの知らせを受け、大内田さんと私もひとまず安堵した。高島さんは六月末、田中農協病院(柏市)に入院、退院してのち七月七日に関係者の手で特養ホーム鶴寿園に送られた。画家が柱にしがみついて離れなかったので、係員が一本一本指をはがすようにして離し、アトリエから鶴寿園に連れ去った。のちに係員は「お気の毒でしたが…」と複雑な胸の内をあけた。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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