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批判的に読み解く歎異抄 №33 [心の小径]

(質疑応答)

          立川市・光西寺  寿台順誠

SI氏‥第十八願の抑止文には「五逆も誹法も救いから除かれる」とありますが、「悪人正因」「悪人正機」「造悪無碍」との矛盾、また仏智疑惑の問題などどう考えたらよいのでしょうか。
順誠‥今責任をもって答えられませんが、遠藤美保子さんの論文が参考になると思います。確か、救われる悪と救われない悪があって、救われる方の悪は「五逆」で、「誹誘正法」の方は救われない悪だったと思います。五逆の方はある条件を満たせば救われるってことです。これは『教行信証』「信巻」の問題だと思います。「儀悔」、つまり自己批判しなきやいけないということです。「造悪無碍」者は自己批判しないでしょう。その意味において、親鸞は確かに五逆の罪を犯した者がいかにして救われるかを、自分の宗教的な課題の中心に置いたってことは言えると思います。が、それは「悪人正因」には繋がりませんね。やはり、慨悔があって初めて救われるわけですから。
これは、前回言いましたように、罪を「罪」と知り、悪を「悪」と知った人間はそれ以後も「悪人」なんですかって問題ですね。御消息を読む限りでは「悪人」のままでいいなんてことにはならないだろうなというふうに私は思っています(13)確かに「仏智疑惑の罪」も償えばよいのかもしれませんね。「仏智疑惑和讃」(本願寺派『浄土真宗聖典』610-614甲・大谷派『真宗聖典』505-507頁)もありますからね。ちょっとその辺はきっちりと読んだ方がいいのかもしれませんけど。ただ「誹誘正法」というのは仏教をそしるものですよね。それは『教行信証』と照らし合わせるならば、やっぱり「化身土巻」で、十九願や二十願の機(人)は一旦辺地に行くけれども、やがては救いの対象になると思いますが、しかし仏法をそしる「外道」はやはり除外されるんじゃないですかね。今は責任を持って厳密には言えませんけど、そんな感じはします。ただ「悪」とか「罪」ってことで主として問題になっているのは、「誹誘正法」の方ではなくて、「五逆」の方だと思います。

S1氏‥先ほどの話で、『歎異抄』には日蓮の存在を考慮しないと理解できない部分があるということでしたがその理由は何ですか。
順誠‥日蓮の問題というのは、確かにこれまであまりクローズアップされてきませんでした。『欺異抄』の歴史的背景を語るとき、善鸞事件にはみな触れるのですが、でもそれだけでは説明がつかず、日蓮の存在を置かないと読めないところとして、二条や十七条が挙げられると思うのです。それで、そうやって日蓮の存在を置いて、もっと全面的に『欺異抄』について考え直してみたら、どのような論理的な問題があるのかということを、多分これからはもっと詰めていかなきやいけないのだと思いますね。今はまだうまく整理できていませんけれど‥・。
                      合掌

 南無阿弥陀仏

13)後日、このやりとりで引き合いに出した論文である遠藤美保子「親鸞の他力思想と悪人正機説に関する再検討--造悪無碍説批判を中心に--」(『仏教史研究』32号、1995年)を確認したが、その該当部分を少し紹介して補足しておくと、遠藤は『教行信証』「信巻」に引用された「諸法は自分一人の心の問題だが五逆は他人を害する罪である。(従っ
て誘法より五逆の方が罪が重いのではないか)。また何故人間は五逆の重罪を犯すのか」という問題をめぐる『浄土論註』の問答(本願寺派『浄土真宗聖典』298頁‥大谷派『真宗聖典』273頁)を解説して、次のように記している。
「答の論理は、A=諸仏が善法を教えてくれるのでなければ人間はどうやって善悪の判断をするのか、B=五逆罪は正法を知らぬ(無正法=無明の)者がその無知の故に犯してしまうこともあるが、語法はあえて正法そのものを否定する罪である故に五逆より罪が重い、というものである。これはこの後続く抑止門の論理と呼応している。「抑止」の論理では、「五逆罪=巳作」「誘法=未造」とされる。即ち、五逆罪は罪と知らずに(無明の故に)正法を聞く以前に犯してしまっている場合もあるが、誘法は正法を知らなければ犯しえない(知らないものを誹讃することはありえない)のであり、従って誘法は正法を教える時点で未然に抑止することが可能である、というのである。その故に、正法を知りながら(無明ではないのに)あえて犯す五逆罪は誘法と等しい。以上の無正法・未造業の例が阿闇世物語であることは明かである。阿闇世は無明のままに父王を殺し、自分ではその行為の善悪判断ができない。しかし仏説を教えられ自分の行為の意味を知り、病気も回復する。逆謗摂取釈では「罪」に関し已作未造・無知既知の違いが重視される。即ち、無明状態か仏教を知っているかによって、悪の意味が異なってくる。そして、逆謗摂取釈の論理は明らかに造恵無碍説とは両立しない。何故なら、『教行信証』(阿閣世物語や『論註』の引用が意味するもの)は無知の故の罪を許すに過ぎないが、造悪無碍(本願ぼこり)は本願(仏教・仏説)を知っていてなお悪を犯すことであり、このような意識的な道悪は誘法に相当するからである。」

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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