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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №56 [文芸美術の森]

最後の個展

      早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 私がフランスでの一年半の滞在をおえて帰国したのは昭和四十八年(一九七三)三月。しばらくは高島さんに会えなかった。国外滞在中に溜まった給与で車を買い、やっと柏のアトリエを訪れると、小屋も片づき、着物姿の画家は元気そうな様子に見えた。その頃は武藤さん夫妻の手配で部屋の掃除にヘルパーさんが周期的に通ってきていたと、あとで知る。
 小屋からでた画家は腰に手をあて、フロントの広い黄色の車体をしばし眺めながら、「外車ではないのか」と言った。普及した大衆車ながら、貧乏学生だった私がいつのまにか車をもつ身分になってと感慨をおぼえていたのかもしれない。このときの高島さんの風姿は鮮やかに私の脳裏にあるが、かれは八十歳を過ぎてもなお呂律がしっかりしていて、「えっ?」と聞き返さねばならぬことは一度もなかった。いまにして思えば、これも驚くべきことだった。
 拙宅からアトリエが遠くなっただけに、一度訪れると五、六時間は長居することになる。
 私は高島さんに欧州体験や帰国後の多忙について話したが、とりわけ次のことを報告した。私はパリでソルボンヌ大学のスラブ科に顔を出すかたわら、ロシア語新聞社に情報をとりに出かけたが、私が出くわした思いがけぬ事態は、ロシア人の亡命は一九一七年の十月革命以降の歴史であると同時に、現在進行形で今もつづけられている。ソ連体制から逃亡してきてソルボンヌ大講師をしている詩人の教科書も、『ロシア思想』紙編集長(元公爵夫人!)の口をついてでるスクープも、すべてはソ連での生々しい出来事や報道である。それがソ連の地下文学(反体制)や思想にもつながっており、また本来のロシアの正統文化なのだ。帰国後、そのことについての執筆を依頼され、なにより私の個人的な仕事のメインになっているのだと。高島さんはこうした国際情報の裏世界にも関心をいだき、執筆を激励してくれた。

 この頃「女先生」の武藤ゆうさんは、夫の重喜から「今度の水曜日にヘルパーさんが高島さんの所に来てくださるそうだ」と聞いたので、掃除の際にまちがって捨てたりしないように、老婆心から画家の『ノート』を預かった。『ノート』はいつも高島さんの枕元の左側に置かれていた。それを後年、武藤さんが私に渡してくださったので、高島野十郎の思想心情や絵の謎を解きほぐすための欠かせぬ手がかりとなった。
 翌年の昭和四十九年(一九七四)、日本橋の丸善画廊(二月二十五日⊥二月二日)で最後の個展が開かれた。作品は大内田さんが立ち会い二十点を選んだ。この件で私も大内田さんと何度か連絡をとり、初日は私が朝早く車で相に行き、高島さんを丸善画廊まで運んだ。と記憶しているが、実際は画家を乗せたのか、挨拶をして必要な物品だけを会場に運んだのか定かではない。当時、高島さんの健康が衰えていたからだ。
 前年の秋から冬にかけて何度か、一度は講義を休講にして大内田さんとともに柏にかけつけている。休講にするというのは、画家の生活や健康のことで緊急を要する相談があったからにちがいない。最初はアトリエの所有者である本家の伊藤英三氏を訪れ、それからアトリエに行っている。いまで言えば老人ホームに入居させるのがご本人のためによいのではないか、そういう額を集めての協議だった。それから高島さんの納屋へ行き、昼の一時から夜八時半まで過ごす。それほど長時間話しこむというのは、画家にまだそれに耐えるだけの元気があったということだろう。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂


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