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批判的に読み解く歎異抄 №31 [心の小径]

(補足説明1) 「悪人正機と要人正因」再考

     立川市・光西寺住職  寿台順誠

 多少時間が余りましたので、いくつか補足しておきたいことがあるのですが、まず改めて「悪人正機と悪人正因」の問題を整理しておきたいと思います。これは前回の話を冊子にして頂いたものを読み直して、少し不明確なところがあると気がついたので、改めて明確にしておきたいと思います。
 「善人尚以て往生す、況や悪人をや」というのは、元々は法然(醍醐本『法然上人伝記』)の言葉なのですが、そこにはこの言葉の意味を「本は凡夫のためにして、兼ねて聖人のためと云ふが如し」と説明してあります。そして、覚如はこの『法然上人伝記』の言葉を使って、『口伝妙』十九条(本願寺派『浄土真宗聖典』907-908頁‥大谷派『真宗聖典』672-673頁)のタイトルを「如来の本願は、もと凡夫のためにして、聖人のためにあらざる事」として、「凡夫本願に乗じて、報土に往生すべき正機なり」「悪凡夫を本として、善凡夫をかたわらにかねたり。かるがゆえに、傍機たる善凡夫、なお往生せば、もっぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん」と述べているわけですから、この「悪人正機説」という言葉の典拠だと考えられる覚如の言葉は、『法然上人伝記』の言葉を解釈したものであると受け取ることができるのではないかと思います。
 また、そのように考えると、『歎異抄』三条の「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」という「悪人正図説」は、覚如の「悪人正機説」以前になされた『法然上人伝記』の解釈だと言えるように思いますが、この言葉がいったい誰のものかと言うと、私は結局のところ、親鸞と唯円の合作として見るべきではないかと思うようになったわけです。このことは、前回の話を冊子にしていただく過程で、校責(校正責任者)さんから、もし『歎異抄』三条のこの言葉が親鸞のものであるならば(注‥前回の話で私は三条に「と云々」を補う方の読み方を採ると言っておりましたので、その場合には「悪人正困」は親鸞の主張であると解することもできます。冊子8-10頁参照)、御消息で「造悪無碍」を戒めていることと矛盾するのではないかというコメントをいただいたことから考えて、ハッキリしてきたことです。実際、この校責さんのコメントは極めて重要な意味を持っていると思います。確かに、「悪人正因」を主張しながら「造悪無碍」を批判するのはおかしいですからね。が、親鸞には実際に矛盾があるのだと思いますけれども、これについては、伊藤益さんの『歎異抄論究』(北樹出版、2003年)によって解決がつくと思いますので、少しそれを紹介しておきます。まず伊藤さんは『歎異抄』三条の性質について以下のように述べています。

 歎異抄は、それ以前のいかなる史料にも増して、善人往生に対して消極的ないし否定的であるといっても誤りではないであろう。このことは、歎異抄が、他のどの悪人正機の思想よりもいっそう激しく悪人の往生を強調していることを意味する。歎異抄は、本質的な意味で弥陀の本願に与りうる(したがって、往生することができる)者を、悪人だけにほぼ限定し、善人を考慮の外に置いていると言っても過言ではないように思われる。(伊藤益前掲書、74頁)

 これは「悪人正因」の持つ意味をうまく説明するものだと思いますね。しかし、同じ本で伊藤さんは御消息に繰り返される「造悪無碍」への戒めについて、以下のようなことも述べています。

 親鸞は、なぜ、関東の門弟たちにむかって、このようにいくたびも「造悪無碍」を戒めなければならなかったのであろうか。答は一つしかない。すなわち、親鸞は、かつて彼らに向かって(おそらくは口伝という形で)、悪人こそが往生の正機であるという認識を披漉したことがあり、それが、悪しき者が救われるならば積極的に悪をなすべきだという誤解を生んだものと考えられる。(伊藤益前掲書、80貞)

 この中の「正機」という言葉は「正因」に読み替えた方がよいと思いますが、とにかく、親鸞はかつて関東時代に「悪人正因」のような軽率なことを言ってしまったと反省して、それで御消息で「造悪無碍」に歯止めをかけるようになったということなのだと思うのです。つまり、どうも言い過ぎた、悪に甘すぎたと思い直したから、御消息でそれを訂正しているということです。ですから、『欺異抄』三条の「悪人正因」は、以前は悪に甘かった親鸞の言葉を唯円なりに書き留めたもの、すなわち二人の合作だと見るのがよいのではないかと思う次第です。いずれにせよ、以上の伊藤さんの見方によって、悪に対する親鸞の抱える矛盾については整合的に説明できるのではないかと思います。
 ただこれについてもう一つ紹介しておきたいのは、平雅行さんが「親鸞の造悪無碍批判は晩年の蹉跌・蹟き」(平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房、1992年、255頁、318頁)であると言っていることです。これはつまり、「悪人正因」を語っていた境の親鸞は革命的に体制権力と渡り合っていたのに、晩年の親鸞はいわば「日和(ひよ)った」(弱腰になって転向してしまった)というようなことが言いたいのだと思います。
 親鸞が晩年反省したことを肯定的に評価するか、それとも平さんのように批判するか、これは今後も親鸞思想の解明にとって、重要な課題たり続けると思います。私はそれを評価すべきだと思っているということを、前回と今回の話を通じて申し上げているわけです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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