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日本の原風景を読む №26 [文化としての「環境日本学」]

狐火ともる麒麟山

   早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  腹 剛

峻険な山に灯る怪火
 阿賀野川は日本列島きっての大水源、尾瀬ケ原と猪苗代湖に発し、一二〇キロを流下して新潟市郊外で日本海へそそぐ。大正三年岩越線(現・JR岩城西線)が開通するまで、中流域の阿賀野川は、およそ七〇キロ上流の福島県会津若松市と約七〇キロ下流の新潟市を結び、コメと塩を交換する船運の中継地、日本三大河港として賑わった。深い川底から断崖の際に湧昇流が連続して盛り上がる光景は、阿賀野川の並みはずれた水量、水勢を物語る。
 津川の街中、阿賀野川と支流常浪(とこなみ)川の合流点に、麒麟山(一九五メートル)がその名の由来する切り立つ流紋岩の絶壁をめぐらせ、仙境の動物のようにうずくまる。
 半島状に突き出した山陵の西端部・城山に、曲輪や桟敷壇を築き、縦堀を掘り下げ、高石垣を積み上げた堅固な山城の遺構(県指定)が眠る。会津領の西境を警固するため、鎌倉時代(一二五二年)藤原盛弘により城が築かれた。
 津川城の地勢はあまりに険しく、狐も登れないので「麒麟山狐戻城」の別名を持つ。
 古くから麒麟山の中腹に狐火(鬼火)の怪火現象がみられ、その出現率は〝世界一”と称されている。超常現象のナゾを明かそうと「世界怪火シンポジウム」(阿賀町主催)が研究者を招き一九九七年に開かれた。地元産の杉の巨木をふんだんに用いた豪壮な「狐の嫁入り屋敷」では、狐火や狐の嫁入りをテーマとした映像が上映され、狐のメイクや面作りを体験できる。
 狐戻城の本丸に近く、城主の守護神だった稲荷神社が祭られ、野口雨情の「津川城山 白きつね 子供が泣くから 化けてみな」の歌碑が。そして津川の多くの民家は屋敷稲荷を祀る。

狐の嫁入りに「もののあわれ」を思う
 地域に元気を。知恵者のアイディアで、一九九〇年から毎年五月三日夕、「つがわ狐の嫁入り行列」が催され、町の人口の一〇倍近い五万余の人々が、復活した「SLぼんえつ物語」号などで訪れる。
 地元に若者が少なくなったため、その年に結婚する二人が公募で選ばれ花嫁・花婿役を務める。衣装とメイクで狐に扮した主役の花嫁が仲人、お供一〇七人を従えて夕闇せまる住吉神社でお里に別れを告げ、「イヤーソーライー」の木遣りにのせ、狐の仕草を交え、会津街道を厳かに歩む。かって土地の結婚式宴会は薄暮に花嫁宅で、夜間花婿宅で行われていた、その名残という。
 途中の酒蔵前では保育園児が扮する子狐の祝い踊りが披露され、可愛らしさにパレードはー段と盛り上がる。行列は麒麟山のふもとの城山橋で、待ち受けていた花婿と合流し、時には県知事も加わり、水上ステージで結婚式と披露宴が行われる。その後二人は河畔を埋めた大観衆が見守るなか、渡し舟で川を渡り、麒麟山へ向かう。狐火に包まれ、狐に化身した夫婦は、津川城の闇に消える。
 日本列島の里山には〝狐の嫁入り″〝狐火″の物語が伝わる。狐の嫁入りに人々は何を見ているのだろうか。「花嫁のはかな気な風情への、いとおしさの思いではないでしょうか」。阿賀町観光ガイド犬飼哲夫さんの言葉に、居合わせた阿部明夫文化協会会長、赤城正男阿賀路の会副会長は深くうなずいた。「もののあわれ」につながる日本人の遠い日々の美意識が、呼び醒まされるのかもしれない。

文化としての狐火
 鈴木牧之は名著『北越雪譜』(天保七年)で「狐の火を為す説は様々あれどみな信がたし」と片付けている。ただし本人は深夜に「狐雪揚場の上に在りて口より火をいだす。よく見れば呼息の燃ゆる也」(「狐火」)と自らの目撃談を記している。
  宮沢賢治は童話『銀河鉄道の夜』で、空中列車の車窓の風景を「たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のように思われました。」と描写している。
 麒麟山と狐火の結びつきはさまざまに説明されている。たとえば、江戸時代の土木工事の測量には、人を並ばせ提灯を持たせて高低差を測った。その灯並びに由来する言い伝えではないか。
 なかでは峠越えの嫁入り行列の提灯に、狐たちが灯をかざして加わったとの説に惹かれる。豪雪険阻な山岳をおおう大森林、阿賀野川畔にしがみつくかのような民家。圧倒的に厳しい大自然界で人も狐も命あるものは互いにいとおしさの感情を抱かざるをえないからだ。
 「狐火とは自然と人の共感のあらわれです。美しい河と深い森にこそ現れるのです。わが郷土の誇るべき文化です」 (赤城正男さん)。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店





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